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「森の生き物たちって、たとえばどういうものですか?」
ところが新城は嘉代子の問いに対して問いで返しながら、首をかしげた。直後、彼が座る椅子の真横の床を1匹の黒いシデムシの成虫が這っていった。新城はそれに気がつき、「ひっ、ゴキブリ!」と情けない悲鳴をあげた。シデムシは黒い身体した甲虫で、死肉、つまり動物の死骸を主食とする虫だ。死骸があると出てくる虫、だから死出虫。彼らは生物の死骸を食べることにより分解し、土に還すという重要な役割を担っている。シデムシとゴキブリが似ているのは身体が黒いことくらいなのに、その区別もつかないとは。森の友だちを名乗っているくせに。訂正するのも面倒なので彼の悲鳴は無視することにした。シデムシは食器棚の下の隙間に消えていった。
嘉代子は構わず話を続けた。
「社長さんは、森にどんな生き物が棲んでいるのか知らないんですか?」
嘉代子は問いに返された問いを問いで返した。新城は食器棚のほうをうかがい、すぐにでも逃げ出せるように椅子から尻を少し浮かせていた。そして、「知りません」とこたえた。
「私はあいにく都会育ちなもので」
スーツの袖口からのぞく手首に鳥肌が立っているのが見て取れた。とにかく早くゴキブリから逃れたい、という思いが透けて見えた。
「そんな方が、森の友だちを名乗っているんですか?」
「ええ。私は作業に関わる人間ではありませんからね。私は社長です。ビジネスマンです。FOFのCEOです。ですから私が直接関わるのは森の生物や土ではなく、人とお金です。人と話し、人を動かし、その結果として森そのものや、森に関わる笹原さんのような方々に利益を還元し、それにともない廃れた森を生き返らせていく。それが私の役割であり、森という最高の友だちとの付き合い方なんです」
新城は誇らしげに胸を張った。
「なるほど。わかりました」
嘉代子は再び山刀の切れ味を確認した。怒りが湧いてきていたのもあり、少し自分の指を切ってしまった。親指に血が滲むのがわかる。嘉代子はそれを新城に悟られないように、ポケットの中で親指をぐっと握り込み、止血につとめた。
まずは、こいつをあの場所に移動させなければ。
嘉代子はそう考え始めた。こういうときのために準備してある場所がある。あの場所まではここから距離にして500メートルほどだ。
「それではちょっと、社長さんに見てほしい場所があるのですが」
「どこです?」
「この家からちょっと奥にいったところです。なぜかなんの植物も育たない、不毛な場所があるんです。たぶん土壌に問題があるのだと思います。だからその……長い名前の物質で改善できるのかどうか、社長さんの目で一度確認してもらいたいんです。でなければもしわたしがこの計画にのったとしても、あの土壌のせいで計画がおじゃんになってしまい、社長さんの手を無駄に煩わせてしまう可能性がありますから」
嘉代子はにこにこしながら言った。住宅街時代、マダムの輪の中で鍛え上げた社交的で人畜無害を表する笑顔だ。わたしはきっとお人好しの老婦人に見えていることだろう。じっさいわたしはお人好しなんかじゃ全然なくて、怒るととっても怖いんだけど。
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