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──彼が生まれたのは両親らが住処を追いやられて間もない頃の事だ。
時には闇夜と森の中に潜み、時には不義と人情が同居する街々に匿われ、そう時間をかけずに一家は離散した。
彼自身に当時の記憶は無い。
幼過ぎたからなのか、あまりに凄惨な記憶であったせいなのか、無論実際の所は解らない。
訊ねられもしないのに教えるべきでは無いだろうとも思ったが、少し思い直した。
知る事が出来る──という事くらいは知らせるべきだろう。
当の目的のためにも。
「……いや別に、知りたくはないかな」
彼は長考した末にいつかのように、もしくはいつものように淡々と言った。
当然何も感じていない訳ではなく、いつしか見るにも聞くにも堪えないものばかりに囲まれていた。
しかしそう思いたくもなくて、そこで目も耳も塞いで息を殺して日暮れと夜明けを越えて行く内、何を見ても聞いても平気になった。
あるいは平気な振りができるようになったか。
いずれにせよ、これを離してはいけない。
彼が望むと望まざると、ゆっくりと【その日】の情景を思い起こす。
確かに見ずに済むのなら、聞かずに済むのなら、知らずに済むのなら、それでも生きて行けると言うのなら、勝手にすれば良い。
それもきっと間違いではないし、間違いだと糾弾出来るものでもない。
──どんなに触れ難くとも、確かに君は此処にいるんだ。
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