ぎゅうぎゅう地獄

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 地獄に落とされてしまった。何も悪いことをしていないのに。  閻魔大王にそのように抗議してみたが、「お前のような嘘つき野郎を何億人と相手にしてきて疲れているのだからつべこべ言わずにさっさと灼熱地獄へ行ってこい」と言われたので、「あんたにとって俺は何億分の一の人間であるかもしれぬが俺にとってこの地獄で話を聞いてもらえる相手はあんたしかおらぬのだからもう少し誠実で丁寧な対応を心がけてみてはどうか」とさらに抗議を重ねるも、「そのような自分本位で相手の気持ちを思いやれぬ態度だから地獄に落とされてしまうのだ」と諭されてしまった。  閻魔大王から現世での裁きを下されるための列は、先頭にいる俺の後ろから最後尾が見えぬほど続いており、俺はさらに閻魔大王に食い下がろうとするも近くにいた鬼によって引きはがされてしまった。 「灼熱地獄はあっちだから床に書かれた矢印に沿って進め」  閻魔大王はぶっきらぼうに言うと、俺を手で追い払うような仕草をした。 「偉そうに。地獄に落ちやがれ」と俺は中指を立てて捨て台詞を吐くが、閻魔大王は「それはお前だ」と冷静に返事をしてから次の人間の裁きをはじめてしまった。  仕方がないので、俺は『灼熱地獄はコチラ』と書かれた床の矢印に沿って歩き出した。  まず思ったのが、人が多いな、ということだった。  確かに現世で死後天国に行けるほど徳の高い奴はそうそういないだろう。だがそれを差し引いても、そこいる人間の数は常軌を逸していた。  最初は矢印の方向に歩けていたのだが、段々と横を歩く人との距離が狭まっていき、やがて完全に両隣の人間と密着する形になった。そうこうするうちに後方からも人がやってきて俺は四方を完全に他人に塞がれ、完全に身動きが取れなくなるまであっという間だった。  だが、俺は灼熱地獄へ行かねばならぬのだ。  俺はぐいと前にいた奴の体を思い切り押した。 「そこの人! 前の人間を押すと大変危険なのでやめてください」  俺は近くにいた先ほどとはまた違う鬼から注意を受けてしまった。 「だがこの列は全然動かないぞ。灼熱地獄に行けぬではないか」  俺はぎゅうぎゅうに詰まった人影の向こうにいる鬼に向かって叫んだ。 「灼熱地獄は現在約十二億七千万人待ちです。ただ、列は少しずつですが動いています。十数年もすればたどり着くと思いますのでゆっくり進んでください」 「十二億七千万人待ちだって? なぜそんなに人がいるんだ」 「ここにはあらゆる時代の罪を犯した人が集まってくるのです。そうなるとやはりそのくらいの人数には……」 「ふざけるな、早く灼熱地獄に行かせろ!」  俺は叫ぶが、よく考えたら俺は別に灼熱地獄に行きたいわけではなかった。  俺は渋々、その場で列が進むのを待った。  おっさんの汗ばんだ肌が密着して気味が悪いったらなかった。遠くで美女を見つけてそちらに近づこうと体を動かしてみたが、二センチほど動いただけですぐに三センチ以上押し戻されてしまった。  そのようにして列は遅々として進まなかった。  死んでいるから食事も排泄も必要ないが、これが生きていたらとんでもないことになっていただろう。無限に近い人間が身動きもできぬほど密集しているのだ。圧死や飢え死にする者も続出するだろうし、糞尿は垂れ流しで疫病の流行なども起きるだろう。  だが一方で、人が死ぬということは人数が減るということでもあった。地獄では誰一人死なないのだ。人間の数はただひたすら増える一方であった。  どのくらいの時間が経過しただろうか。  俺も最初のころはちょっとしたトラブルメーカーで、「俺以外の人間なんか消えてなくなりやがれ!」と叫んでみたり隣の奴が俺の足を踏んだとか踏まないとかの口論をしたりして周囲の人間から疎まれていたが、時間の感覚がなくなるころにはその気力もなくなっていた。  というよりも、周りの人間と密集しすぎて起こせるトラブルなど皆無だった。なんなら密集し過ぎてしばらく前から俺の体は少し宙に浮いていた。  立ったまま眠ることにも慣れたため、今さら横になって眠れと言われても落ち着いて眠ることなどできないだろう。  時間だけは腐るほどあったので、俺はあらゆることを考えて過ごした。考えるのはいつも自分のことだった。  なぜ俺はいつもあんなにイライラしていたのだろうか。思えば小さいころから俺は他人のためになにかをしてあげたことなど一度もなかった。いつもむしゃくしゃして乱暴で、いつだって俺俺俺で自分のことばかりだった。  もし生まれ変わるようなことがあれば、今度は他人のためになにかしてあげるようなことがあってもいいのかもしれない、柄にもなくそんなことを考えるようなときもあった。  俺を埋め尽くすように立っているすべての人間のせいで、俺はこのようなことを考えてしまうのだろう。俺は他者との距離がゼロになって初めて、他者の存在というものに思い至ることができたのかもしれなかった。ここではどう足掻いても、俺は全体の一部でしかなかった。  やがて俺はついに灼熱地獄にたどり着いた。  灼熱地獄は思ったより大したことはなかった。  火炎は熱いには熱かったが、人数が多すぎて鬼が俺たちをどんどん前方に押しやるので、灼熱の業火に焼かれるのはほんの一瞬だった。確かに苦しいのだが、これだけ待ったのだからと、もうちょっと焼かれていたいほどであった。並んでいる間は長いが、乗ってしまえば一瞬で終わる遊園地のジェットコースターのようなものだった。 「灼熱地獄が終わった人は、次は針地獄でーす。前の人を押さないようにゆっくりと進んでくださーい」  もちろん針地獄に向かうための列も長蛇——というか蛇状ですらなく人間を敷き詰めたような列であった。  諦めて俺はその列に並ぼうとするが、次の瞬間、ふわりと俺の体は宙に浮いた。  なにが起きているのか分からなかったが、俺の体が上空に浮かび上がっているらしかった。  皆が地の底から俺のことを見上げていた。  上空から見下ろすとよく分かるが、そこには本当に無限にも近い人間がいた。世界にはかつてこれほどの人間たちがいたのかと、俺はある種の感動を覚えてすらいた。  やがて地獄の果てが見えるか見えないかというところまで浮き上がって、俺は意識を失ってしまった。  俺は目を覚ました。  そこは病室のようだった。俺が寝ていたベッドのそばには看護師のような服を着た女性がおり、俺が目を覚ましたことに気づくと慌ててどこかへ走って行ってしまった。  医師を名乗る男を連れてきた看護師は、俺がいわゆる植物状態で十数年もの間、目を覚まさなかったことを告げた。 「あれは現実だったのか……?」  俺が呟くと、医師は興味深そうに尋ねてきた。 「あれとはなんですかな?」 「いや、なんでもない」  俺はあのぎゅうぎゅうの地獄のことを話さなかった。  頭がおかしくなったと思われても困るし、誰にも告げない方がよいことのような気がした。誰だって自分が死んだらぎゅうぎゅうで一ミリも体を動かせない場所に連れていかれるかもしれないなんて思いたくないだろう。  いくつもの検査を経て、俺は退院した。  行く当ても家族も友人すらなかったが、俺にはやりたいことがあった。  なんでもいいから、他人のためになることをしたかった。いや、正直に告白すると、俺はただ、二度と地獄に落ちたくなかったのだ。  その日から、俺は他人のためにできることはなんでもした。なにをすればよいか分からなかったので、とりあえず道に落ちている落ち葉を一日中かき集めた。やがて海にたどり着いたので空き缶や花火のごみなんかをひたすら拾い集めた。そのうち沖で子供が溺れているのを見つけたので無我夢中で泳いで浜まで引っ張り上げた。子供の両親からもらった謝礼で飯を買い立ったまま少し眠ると、今度は遠方で大きな地震があったらしいという噂を聞き、残った金をすべて使って移動するとわが身も顧みず建物の下敷きになった人たちの救出にあたった。身動きができないのは地獄だけで充分だった。救出作業の目途がつくと困っている人がいる場所に移動して、また同じようなことを繰り返した。アフリカで飢えた子供のために畑を耕したりもした。アフリカは人が多くて心が落ち着いた。途中から、なぜ俺はこのようなことをしているのか分からなくなったが、俺はそのような行動を止めることができなかった。やめた途端になにか恐ろしい目に遭うのではないかという予感を常に覚えていた。  そのようにして数十年のときが経過し、俺は死んだ。たくさんの人に見送られて、自分では確認していないがおそらくは穏やかな死に顔で死んでいっただろう。  気が付くと広い場所にいた。  雲の上だろうか。ふわふわとした場所で、そこにいるだけで幸福な気持ちになった。  きっとここは噂に聞く天国なのだろう。  そうか、俺は現世で他者を思いやる気持ちを持つことができたため、地獄に落とされずに済んだのだ。 「やったー!」  俺は両手を挙げて叫んだ。あのぎゅうぎゅうから、俺はついに逃れることができたのだった。  さて、俺はこれからどうすればよいのだろうか。 「あのう、誰かいませんかー」  俺は呼びかけるが、見渡す限り誰の姿も見えなかった。  厭な予感がした。地獄で見た光景となにもかもが正反対すぎた。  例えばあらゆる時空において、天国にたどり着いたのが俺一人だったとしよう。そうすれば、俺はこの広大な空間でどのように過ごせばよいのだろうか——。 「すいませーん、誰かー」  俺はまだ見ぬ誰かの姿を求めて歩きはじめた。  俺以上に他者を思いやれる人間がいたはずだと、信じて歩き続けるしかなかった。そうでなければあのぎゅうぎゅうの地獄の方が、ここよりまだいくらかマシだった。
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