薬指の約束

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 最近、りつ先生が輝いている。教えてくれるときの声も大きくなったし、前みたいに誰かのいじわるなからかいに、たじろがなくなった。    りつ先生は絵画教室の男の先生で、私はそこで学ぶ生徒のひとりだ。  生徒といっても、これから美大を受験しようというわけではない。来週には50歳になる主婦の、ちょっとした趣味で通っているだけ。    りつ先生は言わないけれど、最近ご結婚されたらしい。左手の薬指に指輪をするようになった。前回、教室で絵を描きながら、先生の手を盗み見て気づいたのだ。     日頃アクセサリーを身につけない若い男性が、結婚指輪をしているのに気がついたとき、なぜだか薬指から色気が漂っているように思うことがあった。  それは、私が今よりずっとずっと世間知らずだった頃のこと――。  どうしようもなくせつなくて、だからこそ愛しく感じた恋がある。    20年以上前だった。  私は妻子ある男性に、夢中で恋をしていた。会社の先輩だった。  毎朝、彼のほうからさわやかな笑顔で「おはよう」と言ってくれた。ほかの先輩が、彼が私をかわいいと言っていると教えてくれた。  流されるように、私はその人を好きになってしまったのだ。  出逢うのが遅すぎたなんて、何かの歌詞にありそうな気持ちで、お互いに惹かれあった。  彼はとにかくやさしくて、仕事でストレスを抱える私をいつも気遣ってくれて、ときにアドバイスをくれた。  女子受けのするレストランにも雑貨屋さんにもジュエリーショップにも、とても詳しかった。それは素朴な20代だった私を、デートとはこういうものだと浮かれさせるには充分すぎた。  けれど私は常に罪悪感に苛まれ、窮屈な心で彼を見つめていた。  やさしくされるたび愛しさがこみ上げ、同時に深い哀しみに押しつぶされそうになった。実に不甲斐ない自分が大嫌いで、なのに彼はかけがえのない人だった。  私たちは2年つきあって、彼が遠くに転勤になったとき、関係を終えた。  疲れ果てていた。もう終わりにしなければと思っていた。彼に当たり散らすことも多くなっていた。  それでもなぜか、年賀状だけの関係はつづいて、お互いの近況はよくわかっている。とても不思議なつきあい、いや、腐れ縁だ。    その間に私は結婚し、仕事を辞め、子どもが生まれた。年賀状で報告をすると、翌年の彼からの年賀状は、喜びと祝福であふれていた。  お正月の家族団らんの中、夫が振り分ける年賀状に、元カレからのものも混ざっているなんて、もちろん夫はまるで知らない。  夫に、ごめんなさいと思うたび、あさりを食べていたら砂利を噛んでしまったときのように、あるいはマイクがハウリングしたときのように、胸がきゅっとなっては、ざわついた。  絵画教室では6人の生徒が、それぞれの絵を描いていた。  みな無言で、静けさの中で、思い思いの作品を。  ただ鉛筆の走る音だけが、時の流れを叫んでいた。そこにある命を写し取りながら。  「霧子(きりこ)さん、デッサンすごく上達されましたね」  静寂を割って、りつ先生が言った。後ろから、そっと話しかけてくれた先生の声は、鉛筆の音よりもずっとぬくもりがあった。 「でも、いったいどなたを描いているんですか? 静物のモチーフを前に」  リンゴやパンに向きあいながら、私はスケッチブックに彼の顔を描いている。  20数年前の、記憶の中の彼を。 「ええ……ちょっと思い出を描きたくて」 「そうですか……!」  私の正面に来てこちらの顔を見たりつ先生は、すぐさまティッシュペーパーを箱ごと渡してくれた。  涙が止まらない。  こんな形でしか、私は彼を悼むことができない。  生徒たちの手が止まり、みな、こちらを見ているのがわかった。静まり返った教室に、私の嗚咽だけが響く。    今年、彼からの年賀状は来なかった。   ところが昨日、面識のない奥さまから手紙が届いた。  不穏な予感がして、ひとりの部屋で封を開けた。    ――お世話になった皆様へ 心からお礼申し上げます    印字されたその訃報が、鋭く胸を貫いた。  四十九日が過ぎたという。まだ53歳だった。  彼は病を、私に隠していたのだ。    あの頃の過ちのせいで、彼にだけ罰が当たってしまったのだろうか。  罪を一手に引き受けて、彼は旅立ってしまったのだろうか。  そして私は深い懺悔の念を抱く。  何もご存じない奥さまに、私にまで辛い知らせを送らせてしまって……。   「大丈夫ですか、霧子さん」  帰り際、りつ先生が話しかけてくれた。 「すみませんでした……もう平気です。それより、りつ先生、ご結婚おめでとうございます」 「え? ああ、これですね? ありがとうございます」  恥ずかしそうに左手をひらひらさせて、りつ先生は笑った。 「先生、人生は案外短くて、別れは突然やってくるみたいです。奥さま、たいせつにしてくださいね」  「あっ、はい! 精一杯、だいじにします!」 「それじゃ、また。ありがとうございました」  教室を出て、自分の左手の薬指を眺める。金のリングは、過去の夫からの、未来への約束。  幸せになろうと、私たちは誓いあったのだ。  さあ、家に帰ったら、私は夫の妻。かわいい娘の、たったひとりの母親。  涙を拭いて、歩かなければ。  表はまだ冷たい春風。それでも陽射しはあたたかい。  彼はどこかにいるような気がする。この風に、あの光に。  そして私は今日も歩いている。40代最後の春を。  彼の生きられなかった、今日という日を――。                                                                                    了
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