40 種を蒔くことと吉田松陰

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40 種を蒔くことと吉田松陰

(種を蒔くことと吉田松陰)  母親の話が出たせいか、彼は思い出したように少し照れながら、苦笑いをして俯いた。 「でも、できれば私は先生になりたいな、美術の先生。子どもたちに物の心を教えたいなー!」 「物の心って?」 「どんなものにも心があるってこと……」 「このチョコレートにもってこと?」 昇さんは、チョコレートを摘んで目の前で眺めた。 「そうよー、このポテチにも、雨にも、夕日にも、雲にも、目で見えるもの、手で触れるもの、言ってしまえば五感に感じるすべてのものに……、私たちはその心を絵にするのよ!」 「心ねー、君ならどんなふうに子どもたちに教えるんだい?」  昇さんは持ったチョコレートをそのまま口に運んだ。 「さあ、どんなふうにと言われても、自分の思ったこと感じたことを絵にするしかないじゃないかな……、私だったら、一日中絵を描かせてあげたいな……、私がしてきたように……、描いて描いてひたすら描いていれば、心はどんどん広がっていくからー、さっき私、外に出ていたでしょう、真っ暗で自分の手さえ見えない中で、このテントの明かりがとても温かく見えたわ。真っ暗で不安な心が、テントの明かりに安らぎを覚えたわ。闇の中で不安な心を安心させる温かい明かり、もし絵に描くとしたら、真っ暗な中にテントのオレンジ色の明かり、空には満点の星空、それだけでは絵にならないから、テントの明かりを強調するために、昇さんは外に出て、薄明かりの中コーヒーカップを手にしているの……、それと星空に少し雲も入れましょう、あの嵐の雲よ、それを私が少し離れて見ているの……」 「それで何が言いたいんだい……、絵の心って?」  昇さんの問いかけに、彼の優しい顔が見える。 「絵の心は、一人じゃないってこと……」 「僕が一人じゃない心?」 「違うわー、私が一人じゃなくて、昇さんと一緒だから、テントの明かりが温かく迎えてくれているように見えるのよー、さーあ、こちらにおいっでって、温かいコーヒーも寝るところもあるよって、今夜は二人で昔話をしよう、なんてね……、伝えたいのは人と人との温もり……」 昇さんは、私をじっと見つめていた。  私はちょっと恥ずかしくなって、またコーヒーカップを口に運んで、目線をそらして俯いた。 「うー、……、なんか絵って面白いね。心を伝えるか、つまり想像することなんだね。今、子どもたちに足りないのは、想像すること、考える力だー、大学でもそんなことを言っていたよ。でも授業の中で、子どもたちに考える時間を与えるのは、ほんの一〇分、一五分だ。後は授業を進めなければならないからね。とても考える力も想像する力も養われないよ……」  昇さんは、思い出したように大きなため息をついた。 「あなただったら、どういうふうに子どもたちに考える力を教えたらいいと思うの?」  今度は、私が訊いた。 「僕だったら……、僕だったらやっぱり同じように一日六時間、ただひたすら遊ばせてあげたい。遊びの中から考える力は自然と養われるから、人間が本来持っている力だからね。子どもたちが考える力がなくなったとすれば、それは社会のせいだ。考えなくても生活できる社会を作ってしまったからだ。お湯を注げばラーメンができるなんて、そこに考える力なんて入り込む隙間がないからねー」 「ラーメンに拘るわねー!」 「拘るつもりはないけどね。調理済み食品といわれる物も、その一つだよ。僕も自炊をしているけど、外食はお金がかかるからね。カップラーメンなんて夢の夢食品さー、袋入りラーメンなら特売で五袋入って三二〇円で買えるから……、でもそれをただ鍋に入れて煮て食べるようなことはしないよ。そこに卵ともやし、ねぎなんか入れれば、もうそれで立派な夕食だ。元は具の入っていないラーメンが、想像を加えて考えて、自分の理想とするラーメンを作る。もし、僕が子どもたちに教えるとしたらそう言うこと、山に行かなくても想像の種は街中にあふれていると思うよ。ただそれを気づかないで、社会の便利さに押し流されてしまう。不便な中にこそ想像があるんだ!」  また、彼の眼が輝いて見えた。  山に登っているよりも生き生きしているよいに見える。  この人、先生に向いている。 「偉いじゃないー、その通りだと思うわー、子どもたちに教えてあげてよ、その想像の力を……」 「でも現実は、ラーメン作るくらいなら、勉強しろって親が言うんだ。火を使わせたら火事になる。最近は火すら出ない電気調理機があるし、刃物を使えば怪我をするって怒鳴られる。親にとってみれば、テレビゲームで家の中で遊んでいてくれる方が一番安心なんだ……」  昇さんは、つまらなそうにまたコーヒーカップを取った。 「でも子供たち、みんながみんな、カップラーメンを食べるとは限らないと思うわー、中には貴方のように、袋ラーメンを工夫して食べる子もいると思うわー、その子は、きっと貴方が先生になって、もっと想像する力を教えて欲しいと思っているかも知れないじゃない……、貴方がそう思うのなら、その子のためにも先生になるべきよー、あなたが戦後教育に絶望しているなら、あなたがそれを変えていかなかったら、また九十年百年続くんじゃないの……、かわいそうなのは、やっぱり子供たちじゃないの?」 「簡単に言ってくれるねー、僕が先生になっても何も変わらないよ!」  昇さんの寂しい笑い顔が見える。 「変わらなくてもいいのよー、あなたは、想像の種を蒔いていれば、きっとその子供が大人になって、政治家になって新しい教育を作ってくれるから……、あなたが政治家にならなくてもいいのよー、別になってもいいけど……」 「政治家ね……」  私は、ふと教育と政治の話から、一人の歴史的偉人を思い出した。 「吉田松陰っていうんじゃないのー」 「松下村塾の?」 「あの人は、塾生たちに新しい時代の夢を語っただけだと思うわ。夢を現実に変える前に死んじゃったからね。でも、その夢を塾生たちが実現したじゃないー、あなた一人で、何もかも背負わなくていいのよ……、現代の吉田松陰になって種を蒔きなさいよっ!」 「吉田松陰か……、そんなこと、言ってくれる人は、今まで誰もいなかったなー、君が初めてだよ!」 「貴方が、訊かないだけでしょう!」 「そうかもしれない……、でも、一つわかったことは、僕たち二人とも教師失格だね。一日中絵を描かせたり、遊ばせたりしたら、すぐクビだっ!」 「そうね!」と私たちは顔を合わせて笑った。  昇さんは笑ってから、大きなため息をついて、一口コーヒーを飲んだ。 「今、思い出したよ。『至誠にして動かされざる者、未だこれにあらざるなり』……」 「どういう意味?」  私は訊いた。 「吉田松陰の言葉、元は孟子からの引用らしいけどね。真心でことに当たれば、それに動かされない人はいない、と言う意味……」 「さすが教育学部ねー」 「吉田松陰なんって、忘れていたよ……」  彼は、また寂しい笑いを浮かべながら、でも前よりも明るい笑顔に見えた。
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