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1 (プロローグ・1)私の娘とライ麦パン
その場に立たないとわからないこと(月の砂漠と少女)
(プロローグ・1)私の娘とライ麦パン
「お母さん、どうして美柚のこと叱らないの?」
小学校から帰ってきたばかりの娘が、ランドセルも降ろさないまま、キッチンに飛び込んできた。
「えー、そうかな? あまり考えたことないけど……」
私は、ライ麦パンをこねながら答えた。
「あ、あー、お母さんっ! 私もパン、作りたいー!」
「もちろん残してあるわよ。早くランドセル置いてらっしゃい」
娘は大喜びで駆けてキッチンを出て行った。
「手もちゃんと洗うのよっ!」
もう姿の見えない娘に向かって叫んだ。
美柚、小学校3年生。やっとここまで育ってくれた。
時々私よりも大人に見えるときがある。
少しずつ私の手から離れていく寂しさと、もう一人の親友ができたような嬉しさと、ちょっと複雑な気分。
ちょっと自慢したくなるような私の娘だ。
こんなに可愛いい子供ができるのなら、
「もうひとり産んじゃおうかな……」と思ってしまう今日このごろ。
「お母さん、今日のおやつは、またパンドーナッツ?」
美柚は、少し不満顔で私を見る。
「当たり! それもライ麦パンの生地から作った、いつものドーナッツよ。栄養満点、パンを焼くと思えば早くできるしね、いいことずくめっ!」
私は、笑顔で話す。
「でも、それって手抜きじゃないの? ライ麦パンのドーナッツって、聞いたことないもの……」
「そう見てくれてもかまわないわ、美味しければ何でも許されるのよっ!」
娘は、彼女専用の踏み台を持ってきて、手際よく膨らんだパン生地を麺棒で嬉しそうに延ばす。
「世界中で私だけじゃないかしら、ライ麦パンのドーナッツを食べている女の子は……?」
「さーあ、どうかしらねー、ドーナッツのお店には置いてないかもしれないわねー」
「あたし、今度は揚げたクリームパンとかカレーパンがいいなー」
「そうね、たまにはね……、本当のことをいうと、今日はシュークリームを作る予定だったんだけどね、昨日の夜中、本の絵を描いていたら、お腹がすいちゃって、今日の分のライ麦パンを食べちゃったから、仕方なくこうして作っているところなの。それにまだ絵は仕上がらないし、大変なのよー、とてもとてもカスタードクリームも、カレーの具も作る暇がないわね! でも蜂蜜グレーズをのばしておいたから、今日はハニードーナッツよっ!」
キッチンは南向き、窓は天井まで届く大きな掃き出し窓。
実家のキッチンは少し暗かったので、極力自然の明かりで、明るくなるように設計してもらった。
窓からは、庭の緑と私が植えた花たちも見える。
もちろん、ハーブや、ちょっとした野菜も植えてあり、時々もいで料理に使う。
「私、甘いグレーズも大好き、でも、どうせならチョコリングにしても食べたいな……」
「チョコリング……、チョコを湯潜で溶かすのがめんどくさい、美柚ちゃんがやってくれるのならいいわよー」
「やってもいいの……?」
「もちろんよっ! 二次発酵の間に溶かしておいてねー」
「まかしておいてっ!」
私が小さいころも、お菓子を作る材料はみんな揃っていた。
母の手から魔法のように美味しいお菓子ができた。
それを私は、敬愛と尊敬の眼差しで見ていた。
少し大きくなって、魔法の種がわかるようになったころ、私は母の手伝いができるようになっていた。
それから中学生になって、母に尋ねたことがあった。
「どうして家には、こんなにお菓子の材料がたくさんあるの? 友達の家に遊びに行って、一緒にお菓子を作ろうとしたら、材料が何もなかったわよー」
母は、嬉しそうに話してくれた。
「そうかもしれないわねー! でも、自然に戸棚から生えてくるんじゃないわよ。私がせっせと買ってきて、いつでも作れるように準備しているからよー」
「それは分かるけど、少し異常じゃない? ケーキ屋さんができるくらいの材料よー」
「それが私の夢なのよー!」って言ったお母さんの顔は笑っていた。
今にして思えば、あれは私をキッチンに縛りつけておくためのお母さんの作戦だったのね。
子供にとって夢のようなスイーツと呼ばれるお菓子が、我家のキッチンからできてしまうのだから、こんな素敵な場所はどこにもないと思ってしまう。
そして、お母さんの作る様子を見ていれば、自分でもやりたくなるのが子供のつね……
それでいつの間にか母のアシスタントを喜んでやっていた私、……
お菓子だけじゃなくお料理も、そう言えば家庭の夜ご飯にしては、ずいぶん手のかかった料理を二人で、たくさん作っていたわよね。
お母さんのローストビーフは、私の得意料理になったわ。
あれもこれもみんなお母さんのおかげね。
そのせいか分からないけど、でもやっぱりそうよね。
私たちって親子以上の親子だったよね。一卵性親子のような。
友達の女の子たちが、よくお母さんの悪口を言うけど、私、少しも悪口出てこないもの……
それってやっぱり凄いことなのよねっ!
でもお母さん、私と一緒に買い物に行ったときは迷子にならないでね。探すの大変だから……
それで考えたのよ。私が母になるって分かったころ、どんなお母さんになればいいのかと思ったころ、やっぱりあのキッチンが私とお母さんを結び付けてくれたのよね。
だから私もお母さんの真似をして、今度は美柚にそれをしているのよっ!
材料を買いそろえておくのは大変だけれども、もともと私が好きなことなので、お母さんもそうだったのよね。少しも苦にはならないわね。
時々、美柚を連れて、菓子作りの材料を見て回りながら買い物をするのも楽しい。
*
美柚ちゃん。ブラックチョコレートのコーティングがしたければ、どうぞ湯潜にかけて作ってください。お母さんは、貴女のために用意しているのだから……
それで、あなたが大きくなって、自分で何でも作れるようになるのを待っているのよ。
*
私は、娘の手際を見ながら、その横で残りのライ麦パンを丸める。
「じゃあ、今日はテレビ局に行ってないのね?」
美柚は、私を見ないまま話す。
「あのねー、美柚ちゃん! お母さんは、女優でも、お笑いタレントでもないのよ。たまたま美晴おねえさんが、たまたま絵の番組の仕事を持ってきて、たまたま受けが良かったのかなんなのかは知らないけど、たまたま続けて、油絵教室の番組をやって、その間に他の番組のゲストに呼ばれたりして、それで喜んだ美晴が懲りずに、せっせと仕事を持ってくるので仕方なく出ているだけなんだから、専業主婦と言っても、一応はみはるプロダクションの一員だからねー」
「あ、そうだ絵で思い出した、お母さん、いつも美柚のこと叱らないよねー?」
美柚は、驚いたように私を見て、それからそっと目線をテーブルに落とした。
娘は伸ばしたパン生地に、ドーナッツの丸い型金を押しこんで、ドーナッツのリングを作りながら不安そうに小さな声で私に言った。
「そうかな? でも、当たっているかもしれないわね。美柚ちゃんの顔を見ていると、とっても可愛くて可愛くて、叱る気持ちがなくなっちゃうのね。でも、これからずーっと叱らないとは限らないかもよ……」
そう、私は彼女を叱れない……
あなたが私のお腹の中から生まれてきたことに、この上もなく感謝しているから、大切な大切な私の娘、私の分身、私のできる全てのことを貴女に与えたい。
そんな貴女をどうして叱れるの……
「それでどうしたの……?」
「あのね、タマがね、アトリエに入っちゃったの……」
「あっ! しまった、どうしてそれを先に言わないのっ!」
私は、つい語気強く言ってしまった。
「お母さん、今叱らないっていったのに……」
「だから、分からないって言ったでしょう!」
私は思い出した。
美晴に頼まれた本の装丁の絵を仕上げているとき、つい夢中になって、パンの発酵時間を忘れてしまい、慌ててキッチンに戻り、ドアを閉めるのを忘れたのではないかと……
いつものことだけど、自分として情けない。
「いいわ、あの猫、今度入ったら絞め殺すっ!」
「お母さん。タマを絞め殺さないで、ドアはちゃんと閉まっていたわ」
「そうなの? じゃあ、何でタマが入れたの?」
「私が学校から帰ってから、すぐにアトリエに入ったのよ、その時ドアをよく閉めなかったのね、ピチャピチャ音がするから、見るとタマがキャビネットの上に乗って絵具を舐めていたわ、それで、だめー!って言ってタマを捕まえようとしたら逃げられちゃって、絵具のついた足で床を走ってソファーに乗って、それから棚の上に乗って……」
「うそっ! なんでそれを早く言わないのよっ! やっぱりあの猫、絞め殺すっ!」
私はすぐさまアトリエに行こうとしたが……
「お母さん、パン膨らみすぎちゃうよ。それから、私が追い出したから……」
「何でそれを先に言わないのよっ!」
ため息混じりで、美柚の顔を見る。
「でも、お母さん、ちょっと大変なことになっているけど……」
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