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2(プロローグ・2)タマとアトリエ
(プロローグ・2)タマとアトリエ
美柚に言われてアトリエのことを気にしながらも、パン生地を仕上げてから、二人で向かった。
タマはもう棚の上にはいなかったが、タマの足跡が床に散乱していた。
でも、心配していた描きかけの絵は無事だった。
思えば、タマが我家に来たころはもっと悲惨だった。
まさかキャンバスの角で爪を研とか、まさかイーゼルに掛っている絵に飛びついて登るとか、思ってもみなかった。
タマのおかげで何枚絵をダメにしたことか。
それでタマは、アトリエから永久追放されたのだが、何が気にいったのか、油の匂いなのか、すきを見ては忍び込む。
私は、もう一度大きくため息をついて、ウエスとテレピンを持って足跡を消して回った。
「それでお母さん、テレビ局には行かなかったのね?」
美柚は、イーゼルに掛っている絵を手持ちぶささそうに眺めていた。
「そうよ……、本の表紙の仕事が明日締め切りだから。それに私は一応専業主婦なんだから……」
「でも、お母さん有名な絵描きさんなんでしょう? テレビに出られるくらいなんだから」
「有名じゃないと思うけど、でも美柚ちゃん、他でお母さんはテレビに出ているなんていわないでよー!」
「あら、お母さん知らないの? 私が言わなくても、学校からご近所さんまで、みんな知っているわよー! 三年生になったとき、担任の先生が、画家の幸子先生の娘さんかって驚いていたものー、それにお母さんの絵本、学校の図書館にもあるし……」
「困るなー、あまり目立つのも、それに画家なんて思われたら、本業でやっている画家さんたちに悪いじゃない……」
「でも私、少し嬉しかったけどねー」
美柚は、嬉しそうに私を見た。
「それはどうも……、そういえば美柚ちゃん、アトリエに何か用でもあったの?」
「そうなのよー! 私の絵、もう少しで完成って言っていたから、今日にはできているかなって思って、楽しみに帰ってきたのよー、完成したら、あの女の子の絵の隣に飾ってねー!」
先週の日曜日のことだった。
美柚から初めてアトリエに掛っている、絵の中の少女のことを聞かれた。
それでこの少女と出会ったときの昔話を聞かせてあげた。
美柚はその話にいたく感動したのか、私も描いて欲しいと言われた。
美柚が生れてから何度も絵に描こうとしたが、なかなかうまく描けなかった。
赤ちゃんだったころの美柚は、ただただ可愛いといった感じで一生懸命描いたが、それだけでは何も伝わってこない。
私の描きたい絵は感じる絵。
見ていると描かれている絵の心が伝わってくる絵……
赤ちゃんから心を見出すのは指南の業……
そして三歳五歳の時の美柚は、描こうとしたが拒絶された。
無理にお願いして描かせてもらったが、一分もじっとしていない美柚を、さすがの私も集中して描けずに挫折……
やっぱり思い道理の絵にはならなかった。
そして、この日曜日に、初めて美柚から描いて欲しいと言われて、やっと思いが叶うとばかりに、喜び勇んで三枚の絵を一気に描いた。
「そうだったのね。でも、あれから進んでないけどね……、でも、いい絵になったわっ!」
私は、手を休めて美柚の横に立って、彼女の絵を見た。
美柚は恥ずかしくなったのか、壁にかかっている少女の絵のところに向かった。
「また今年の夏も行くんでしょう。北軽井沢?」
「もちろんよっ! みんな待っているしねー!」
「私、ちっとも気がつかなかった。いつも行っている北軽井沢のペンションが、小さいころから見慣れている、この絵の風景だったなんて、それにこの女の子のことも、もっと早く話してくれればよかったのに……」
美柚は渋い顔で遠くから私を睨む。
「そうだったかなー? 話さなかったかなー? でも、私のお母さんの話はよく聞かせてあげたじゃない、それにお父さんと初めて出会ったペンションってこともね……」
「それは聞いたけど、女の子とさっちゃんのことは聞いてなかったわっ!」
美柚は少し膨れて見せた。
実は、わざと話さなかった。
あまりにも複雑な話なので……
そして不思議な出来事だったので……
美柚が理解できる年齢になるまで伏せていたのだった。
「じゃあ、また話してあげる何度でも……」
そう何度でも、この少女と私の母と縫いぐるみのさっちゃんの不思議な物語を……
それは、今からほんの十三年前の夏の出来事だった。
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