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久しぶりに入る満縁湯の浴室は昔からそんなに変わっていないはずなのに、何だか広々としているように感じる。
シャワーのある洗面スペースでは、早苗さんが用意してくれた椅子に公恵が座り、彼女の身体を楓さんと奈緒さんが洗ってくれている。その隣りに裕子も座って、隣りの母を気にしつつ、自分も全身を洗う。きめ細かなシャワーの水圧が肌に心地良い。
幼かった頃、シャワーの水圧が嫌いで裕子は満縁湯のシャワーが嫌いだった。母がシャンプーと身体を洗ってくれている間はずっと不機嫌で、早く湯船に入りたかったのを思い出した。
シャワーを嫌がる裕子を母は怒ることなく、笑顔で宥めてくれていた。念願の湯船に母と2人で入ると、シャワーで不機嫌だった裕子も温泉を楽しんだ。そこで一緒に歌った数え歌、母が聞かせてくれたお話、幼稚園であった出来事…湯船の熱さを忘れるくらい2人で話に夢中になっていた。
子供の頃はあんなに沢山母と話をした。時間が足らないくらいだった。
裕子が成長していくにつれ、最低限の会話しかしなくなっていった。
父が亡くなった時、1人残された母が不憫に思えたが、母は思った以上に元気で、そのまま今のアパートで一人暮らしを始めたが、脳梗塞で倒れ、裕子は当時勤めていた会社を辞めると、夫と共に母のアパートに引っ越してきたが、直ぐに夫は地方に転勤になり、別々の生活が始まった。慣れない介護生活。母の辛さや痛みを理解しようとしても中々難しく、当初は会話がうまく成り立たなかったせいもあり、溜まったストレスで当たり散らしてしまう時もあった。
母だってきっと自分以上に辛かったはずだ。
一通り身体を洗い終わった裕子は再び公恵の様子に視線を向ける。
椅子に座る公恵の髪を奈緒さんが手慣れた手つきで洗い、楓さんは彼女の身体が冷えないようにと、話しながらシャワーをかけてくれていた。
「きみちゃん、髪伸びたわね。以前はずっと短かったから、こんなに長い姿を見るのは新鮮だわ」
「そうね。今はこの長さが好きなの」
「でも公恵さんの髪って綺麗ね。指通りも良くて、サラサラで」
「でも、白髪が増えちゃったわ」
「あら!それは皆んな同じよ。そう言えば、こうして見ると3人の白髪の量は同じくらいかしら。だったらさ3人共同じくらい苦労したってことよね」
その言葉に公恵は声を出して笑った。公恵は会話を心から楽しんでいるみたいだ。
湯船に浸かりながら、ふ〜っと一息ついた。久しぶりに浸かる満縁湯の温泉。
子供の頃は熱湯のように感じていたが大人になった今入ると、とても気持ちがいい温度だ。
見上げてみると、高くて広い天井がある。この天井はこんなに広かっただろうか。
この湯船も、あの湯船も、子供の頃は大きい水槽の様に感じていたが、こうして浸かってみると小さいが程よい広さだし、子供の頃、そして今になって改めて見た満縁湯は何も変わっていないが、子供の視線で見ていた風景とはまた違っていて、何だか新鮮な気持ちになれた。
程よく汗をかき、ここまでゆっくりお風呂を楽しんだのはいつぶりだろう。
ずっと楓さんや奈緒さんに母を任せっきりなのも申し訳なくて、母が温泉を一通り堪能したタイミングを見て、脱衣所へ向かう。タオルで母の全身を拭いていきながら顔を伺うと、温泉を堪能出来たようで、熱った顔は多幸感に満ちていた。
「お母さん、髪乾かそうか」
洗面台には20円で3分使えるドライヤーがあり、母の髪を一通り拭き終えてゆっくりドライヤーを髪にあてていく。
昔は母が裕子の髪を乾かし、櫛を通して整えてくれたのを思い出す。
「気持ちいいわぁ」
嬉しそうに言う公恵の言葉に裕子も嬉しくなる。
こうして穏やかに2人で笑ったのはいつ以来だろう。
「お母さん…」
「ん、なに?」
「ありがとう。満縁湯に来たいって言ってくれて」
「……」
「私ね、お母さんが脳梗塞で倒れて、半身麻痺って先生から言われた時、どうしたら以前みたいに元気になるのか…そればかり考えてたの。だから必死になり過ぎてた。お母さんの気持ちも考えず、とにかくリハビリを頑張れば、また元の元気な姿に戻ってくれるって思ってて…満縁湯にまた行こうっていう目標を2人の共通の目標みたいにしてた。でも私だけ変に力んでて、お母さんの気持ちを考えていなかった。きっとお母さんも同じ考えだって勝手に思ってた…。だから、粗相しちゃった時、お母さんの為にも、もう満縁湯に行かない方が良いのかもとか、周囲と関わらない方が良いのかもしれないとか、考えが一方通行になってて…。でも、どこかで思ってたの、本当にそれで良いのかって」
話しながら、乾かし終えた公恵の髪に櫛を通していく。
白髪が増え、毛先にうねりとパサつきが目立つが櫛の通りはよく、絡まることなく櫛の隙間を通っていった。公恵は裕子の言葉を聞きながら櫛の感触を楽しんでいるうようだった。
「…今日、みんなと楽しそうに話すお母さんをみて、凄く嬉しかった。お母さんがあんなに笑った顔を見るの、久しぶりで。楓さんや奈緒さんも優しくて…何だかホッとした…」
今まで頼る人と言えば、ヘルパーさんくらいで。しかし、それはただ業務的な頼り方しかしていなかった。楓さんと奈緒さんは昔から母の事をよく知っているだけでなく、今の状態を説明しなくても理解し受け入れてくれた。その輪の中にいる公恵は家では見ることが無かった笑顔で楽しそうにしていて。その笑顔に裕子はどれだけ救われ、安堵したことか。
櫛を通し終えると、公恵はゆっくり立ち上がって杖をつきながら何処へ歩いていってしまった。
「お母さん?」
返事もせず公恵は裕子だけを残して行ってしまった。何か悪い事でも言ってしまったのだろうか。1人取り残された洗面台でしばらく待っていると、公恵が戻って裕子にそっとあるものを差し出してきた。
「はい、裕子」
公恵が差し出してきたのは、瓶に入ったコーヒー牛乳だった。
「裕子、これ好きだったでしょ」
瓶のコーヒー牛乳…それは裕子が子供の頃から満縁湯に来ると必ず飲んでいた。お風呂から上がって、髪を乾かし終わると公恵がいつも瓶ものの飲料商品が並ぶ冷蔵庫から買ってくれた。
「お母さん、買ってきてくれたの?ありがとう」
「一緒に、飲も」
コーヒー牛乳を受け取り、ゆっくり蓋を開けた。 公恵の分も開けると、懐かしいコーヒー牛乳の香りが鼻腔をくすぐる。
子供の頃は両手で持っていないと落としてしまいそうなくらい大きさと重さを感じていたのに、瓶が小さくなったのか、裕子が大人になったからか、すっぽり手の平に収まってしまうくらいシンプルになったコーヒー牛乳の味は変わらず、裕子の子供時代の記憶を鮮明に甦らせた。
湯上がり、公恵に髪を乾かしてもらいながら、早くコーヒー牛乳が飲みたくてソワソワしていた。乾かし終わると、公恵が自身の髪を乾かすのを待たずに一目散に瓶もの商品が置かれた冷蔵庫の前に走ったものだ。
脱衣所の隅っこの椅子に座って公恵と2人で飲むコーヒー牛乳は甘過ぎず、程よく苦くて懐かしい味だ。コンビニでもコーヒー牛乳は売っているが、裕子はまだ町銭湯で、この満縁湯で飲む以上に美味しいコーヒー牛乳にまだ出会えていない。
「美味しいね、お母さん」
「美味しいわね」
久しぶりに味わうコーヒー牛乳は絶品だったのか、裕子はあっという間に飲み干してしまった。公恵はそんな裕子を見ながら、ゆっくり、ゆっくりと瓶にあるコーヒー牛乳を飲んでいく。
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