コーヒー牛乳

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 楓さんと奈緒さんもお風呂を終えると、3人は再び2階の食事処へ移動し、今度はお風呂上がりのデザートタイムだ。  待合室で裕子は1人でさっき飲み干したコーヒー牛乳の瓶を手に考え事をしていた。  以前なら飲み終わったらすぐ瓶置き場に置いていたのに、何だか今日のは手放し難かったのと、忘れていた気持ちを思い出せたから、その気持ちを忘れたくなくて。 「裕子さん」  それまで2階の食事処で公恵たちと話の輪の中にいた早苗がやって来た。 「早苗さん、母のために、色々ありがとうございます」  まだ早苗にしっかり御礼を伝えていないことを思い出し、裕子は改めて早苗に頭を下げて御礼を伝えた。 「いいえ。お母様と裕子さんが笑顔になって良かった」 「…あんなに楽しそうな母を見るのは本当に久しぶりです。私、ずっと母が笑った顔を見ていなくて、笑っていないことに違和感も無かったんです…家で介護しているのに、何やってるんだって感じですよね」 「…それだけ裕子さんは必死に、一生懸命お母様を介護してきたってことじゃないかしら」 「母の介護を始めて、頼れる存在はヘルパーさんだけでした。歳をとって、介護の身の母の姿を余り人に見せなくないし、話したくなかった。だから母と同居するタイミングで夫に地方転勤の話が来た時、ホッとしていたんです。いくら親でも彼からしたら義母だし…介護に関して相談するにしても、彼も私も介護の経験も知識は無いから、何を相談していいか分からなくて…結局、私1人で解決することを選んでしまっていて。そんな事もあったから、人に母のことで頼ったり、相談するのをいつからか諦めてしまっていました…でも、本当は何処かで分かってたんです。母にとっても、私にとってもこれじゃいけない。何とかしなくちゃって。でもどうすればいいか分からなくて…」  ふと気付くと、早苗の手が裕子の背中を優しく摩ってくれていた。強くはなく、そっと寄り添い、支えてくれているような、安心感がある温もりが服越しから伝わってくる。 「裕子さん、介護って辛くて大変なことの方が多いと思う。介護される方も、する方も…。ずっと元気でいる親の事を介護するのは、親の老いに向き合わなきゃいけないし、ましてや歳を取って介護される親の姿を見せる事や、話すことって凄い勇気がいることだし。裕子さんは今日までずっと色々な事を独りで抱え込んできたのよね。辛かったでしょう」  早苗の言葉が、背中を摩る手が優しくて、涙が堰を切ったようように溢れ流れた。  母の笑顔を暫く見ていなかったのと同時に裕子もずっと感情を表に出す事をしてこなかった。ましてや人前で泣くなんて。でも恥ずかしさは感じない。公恵と裕子の母娘をずっと気にかけてくれていた早苗さんだから。  暫く泣き明かした後、ようやく気持ちが落ち着いてきた。母はまだ2階で楓さんや奈緒さんたちと話しているのだろうか。 「早苗さん、今日久しぶりにお風呂を楽しみましたし、コーヒー牛乳がこんなに美味しいことを改めて知りました。この味、変わっていませんね」 「そうね。私は瓶のコーヒー牛乳も好きだけど、他の瓶が好きかな」 「他の瓶?」 「キンキンに冷えた瓶ビール!仕事終わりに飲むと格別なのよね!」  裕子はやっぱりという表情をしながらも、早苗と声を出して笑った。  2人が2階に上がろうとした時、丁度母が楓さんたちと一緒に1階に降りて来た。 「あら裕子ちゃん。すっかり話し込んじゃってごめんね」 「いいえ。あの、楓さん、奈緒さん…今日は母を見てくれてありがとうございました。 …母がこんなに楽しそうに笑っているのを見たのは、久しぶりで。ずっとヘルパーさん以外の人に母を任せたりすることをしてきませんでした。今日昔から知っている楓さんと奈緒さんがいてくれて、母も私も安心していましたし…本当に助かりました。ありがとうございます」 「もぉ〜!裕子ちゃん水臭いわね!!いつでも頼ってよ!私たちだって自分の親や旦那の親の介護を経験してるし。それにどんな状態だって公恵さんは公恵だし、裕子ちゃんは裕子ちゃんよ。昔みたいに気軽に声かけてよ。人に頼ることは、恥ずかしいことじゃないわ」 「そうよ。私たち、今日だけじゃなく、これからも公ちゃんに会いたいし、一緒にお出かけもしたいわ。ずっと窓の外から手を振るだけで、何も出来ないのがもどかしかったのよ」 「え、窓の外?」  楓さんはしまったという表情をしたか、今更隠す必要もないと思い、話してくれた。  楓さんと奈緒さんは買い物帰りや習い事の帰り道に、公恵のアパートの前を通ると窓側に座ってじっと外を見ている公恵に必ず手を振っていたのだという。  出かける時と言えば、家とリハビリテーションや病院、ショートステイ施設の往復、ヘルパーさんが散歩で連れて行ってくれる公園など。公恵にとって外の世界と触れる時間は1日の中で少ない。それは裕子も分かっていた。昼間はパートがあるから、その間はヘルパーさんにお願いしているが、それは裕子にとって留守の間、母を見てもらっている安心を得られるが、公恵の心が独りなのには変わりない。  裕子が仕事から帰ると、母は決まってベッドから窓の外を見ていた。裕子はヘルパーさんと話したり、夕飯の用意や家事でバタバタしていて気付かなかったが、公恵は楓さんや奈緒さんがアパート前の道を通るたびに手を振るという会話の無い挨拶を交わしていたのだ。 「全然知りませんでした…私、結局自分のことばかりで…」 「裕子ちゃん、みんな精一杯だとそうなっちゃうわよ。でも今日こうして色々な話が出来たし、今日を境にまた3人で集まろうって話してたの。グループLINEも作ったし」  奈緒さんが見せてくれたのはグループLINEのトーク画面。 『グループ作りました!宜しくお願いします。奈緒』 『奈緒さん、ありがとう!! 楓』 『みなさん、またよろしく^_^ 公恵』  公恵のメッセージの後にキャラクターのスタンプが付いていた。こんな可愛いキャラクターのスタンプを他にも沢山持っていて。いつも裕子とのやり取りは文字だけだったから驚きだ。
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