コーヒー牛乳

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 最後まで賑やかだった満縁湯を後にし、帰り道は裕子も公恵も無言だったが、今までとは違って、穏やかな気持ちに満ちていて、裕子も公恵の車椅子を押す手も足取りも軽やかだ。 「お母さん」 「何?」 「今日は賑やかで楽しかったね」 「そうね」 「…私ね、ずっとお母さんを過剰に守り過ぎてた。お母さんが傷付かないように、私がしっかり守らなきゃ、支えなきゃ…って。でもそれは私の独りよがりでもあって、お母さんの笑顔を奪ってた。ごめんね…お母さん」 「謝らないで裕子。ずっと私のために一生懸命頑張ってくれて、本当に感謝しているし、苦労をかけて申し訳無いと思ってる。裕子が頑張っているから、あまり今以上の気苦労をさせたくなくて、自分の気持ちを余り言わないようにしてたけど、やっぱりちゃんと伝えないとダメね」  車椅子を押す裕子からは公恵の表情は見えないが、彼女の言葉は裕子の心にそっと寄り添うように優しく、穏やかな口調だ。ふと満縁湯で早苗に背中を摩ってもらった感触を思い出した。優しく、安心感のある手の感触。公恵の言葉は早苗のそれに似ていた。  アパートに着くと、車椅子を降りた公恵を支えながらゆっくり階段を登った。今までは階段を登る際、辛そうな表情と息遣いをするので、それが裕子にとって心の負担であり、経済的にも引っ越しが難しいことへの罪悪感が刺激されていた公恵だが、今回は裕子とタイミングを合わせながら、ゆっくり登っていく。裕子も公恵の背中に手を置きながらしっかり全身を支えていた。 「お母さん、明日、孝之さんに電話してみる。孝之さんと今後のことに関してしっかり話し合ってみる」  家に帰るなり、裕子は公恵に言った。  孝之は単身赴任で名古屋に行ってから、時々LINEや電話で近況を報告し合ってはいるものの、裕子は介護の事で孝之に弱音を吐くことはなかった。余計な心配をかけたくなったし、単身赴任が決まる前、公恵の介護に協力すると言ってはくれたが、義母の介護をお願いするのは気が引けてしまい、結局今まで公恵のことを訊かれても「大丈夫、元気よ」と毎回答えていた。 「そうね。孝之さん、元気かしら。私も久しぶりにお話ししたいわ」  そう言いながら、公恵はゆっくりベッドに腰掛けながら上着を脱ぎ、裕子は公恵が使っていた車椅子を片すと、満縁湯で使った銭湯グッズ一式をカバンから出した。その中には公恵が買ってくれたコーヒー牛乳の空瓶もある。裕子は銭湯グッズを片付けると台所へ行き、コーヒー牛乳の空瓶を水と洗剤で濯ぐとタオルで水滴を拭いて、食器棚に仕舞った。  再び自室にいる公恵を見ると、いつもなら窓の外を眺めているが、今は窓に背を向け、嬉しそうにスマホを見ていた。 「楓さんと奈緒さんがね、来週リハビリが終わったら一緒にお茶しようって。嬉しいわ」  裕子の視線に気づいた公恵が嬉しそうに言ってきた。 家の中で響く公恵の明るく楽しそうな声は夕飯の用意をする裕子の口元に笑みをもたらした。 コーヒー牛乳【完】
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