コーヒー牛乳

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 朝からよく晴れた土曜日。 いつもより早起きをし、洗濯物を干し、母の朝食の準備をした。母は土曜日の朝から裕子がいるのが久しぶりで嬉しかったのか、朝の挨拶もハキハキしていて、機嫌もいい。その証拠に、いつもなら余り良い顔をしない車椅子での移動の提案もすんなり受け入れてくれた。リハビリで杖をつきながら歩けるようになったとはいえ、長距離を歩くのはまだしんどいので、家の近所以外への移動は車椅子を使用するようにしているが、母は車椅子だと身体を甘やかしているように思っているようで、出来る限り杖を使って歩いているが、長距離を歩くのは体力的に難しかった。  久しぶりに母と出掛ける公園は清々しくて、車椅子を押す手も足取りも軽い。  車椅子に乗った母は嬉しそうに周囲を見まわし、公園内の木々や花々を楽しんでいた。  脳梗塞で倒れる前は趣味でガーデニングをやっていて、朝起きるとベランダに置いた植物に水をやるのが朝の日課で、近所から花や植物の種を分けて貰ってはそれに合いそうな鉢を探してきて、丁寧に育てていた。母に育てられた植物たちは彼女の丁寧な手入れのせいか必ず目を出し、綺麗な花を咲かせたり、深緑の葉をつけ丈夫に育った。 左半身麻痺になってからはガーデニングもやめてしまったが、こうして花々を見ながら微笑んでいる母の姿は幸せに満ちていて、それは裕子の中に蓄積されてしまっていたギスギスした感情を浄化してくれた。  公園を抜けると昔から馴染みの商店街にやって来た。  裕子にとって毎日仕事帰りに通り慣れている道。いつもは急ぎ足で買い物をして走るように通っていたから、こうして車椅子を押しながらでもゆっくり歩くのはいつぶりだろう。  母はたまたま通りがかった小物店の前で小さなガラス置物を嬉しそうに見つめていた。  キラキラと光るガラスを見つめ、母が嬉しそうな表情で笑ってくれると裕子もホッとする。ずっと仕事続きで、こうして母の表情の変化をゆっくり見ることがなかった。今日は一緒に外出出来たのと、母の表情がずっと穏やかなことが裕子に安心感を与えた。 「安城さん」  突然声をかけられて振り向くと、そこには満縁湯の女将・早苗が立っていた。 「早苗さん」  車椅子の母は最初驚いていたが、声をかけてきた相手が早苗だと分かると、表情が和らぎまるで長年の友人と再会したような笑顔を見せた。 「お久しぶりです」 「早苗さん、お元気?」 「はい、元気です。お母様もお元気そうで良かった」  嬉しそうに早苗と話す母とは正反対に裕子は複雑な表情で2人が会話する様子を見つめていた。 「早苗さん」 「何ですか?」 「…また、満縁湯に行きたい」  母の言葉に裕子も早苗も驚きを隠せなかったが、早苗は次の瞬間ホッとした表情になった。 「ちょっと、お母さん!」 「お母様、いつでもお待ちしています。また、裕子さんと一緒に入りに来てください」  早苗はそう言うと、母の手を軽く握って2人に軽く会釈をして去って行った。 「お母さん、冗談でも早苗さんにあんな事言うのはやめてよ。満縁湯に行きたいなんて…」 「…だって、行きたいから…」  またそんなことを…早苗は半ば呆れながら長い溜息を吐いた。 「お母さん、行きたいって気持ちは分かるけど、また以前みたく…」  そこから先を言いたくなかった。思い出したくなかった。言葉に出したら、母を傷つけてしまいそうで。押し黙る裕子の気持ちを察したのか、不安定な足取りで裕子に近付き、その手をそっと包み込む様に握ってきた。握力は強くはないが、優しくて柔らかな感触だ。 「あの時は、ごめんね。…でもやっぱり、満縁湯は私にとって大事な場所なの。だから、もう一度行きたいの。お願い。裕子に迷惑はかけないから。約束する」  一言一言をしっかり言葉にし、はっきりと訴えてきた。  脳梗塞で倒れて以来、母がここまで強く自分の言葉で訴えてきたことは無かった。  確かに満縁湯は裕子が子供の頃から家族で慣れ親しんだ場所だ。一緒に湯に浸かり、湯上がりに飲むコーヒー牛乳が楽しみだった。 裕子が社会人になって一人暮らしのために家を出てから介護の為に戻ってくるまでの間、母にとって近所の人たちとの大切な交流の場所だった。 それは今も変わっていない。例え半身麻痺になり粗相をしてしまっても、母にとって大事な場所であることに変わりはないのだ。 「……分かった。明日、行ってみようか」  気持ちを整理出来ぬまま、公恵の言葉に負けた形で裕子は了承した。そんな裕子の気持ちとは反対に母は満面の笑みを向けてきた。 「ありがとう、裕子」
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