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翌日。
母の車椅子を押しながら満縁湯へ向かう裕子の気持ちは複雑だった。母たっての希望で行くことを了承したものの、粗相をしつしまった場所に行ったら、辛い思いをしたりしないか。はたまたその時のことを覚えている人と会って白い目で見られたりしないだろうか。
考えれば考える程、裕子の中に不安が蓄積されていくが、当の母はそんな裕子の気持ちなど知るよしもなく、昨日の公園に出かけた時みたく嬉しそうだ。
満縁湯は周囲の建物とは違って、一際歴史の重みを醸し出している佇まいだ。まるでそこだけ時間が止まっているようで、何だかとでも懐かしい気持ちになる。それは母も同じなのか、入り口近くまで来るとホッとしたような表情で建物を見つめていた。
「裕子さん!公恵さん!」
丁度フロントに入っていた早苗が2人の姿を見つけると、嬉しそうに近寄って来た。
「昨日はどうも。母が、どうしても満縁湯に行きと言いまして…」
裕子は気まずそうに早苗とは目を合わせず、俯きながら話した。
女将の早苗はエプロンにデニムパンツのシンプルで動きやすい服装だが、その一挙手一投足が周りの視線を集めてしまうため、こうして軽く会話するだけでも裕子には気まずかった。裕子は周囲からの視線が嫌で居た堪れない気持ちになる。ハッキリと周りにいる人たちの顔を見てはいないが、この中にも、母が粗相した時に居合わせた人だってきっといる。出来る限り目立たないように過ごしたいのに…。
「あら!裕子ちゃん!公恵さん!」
「まぁ!きみちゃん、久しぶり!」
2人に声をかけてきたのは、昔から母と仲が良いご近所の主婦仲間・楓さんと奈緒さんだった。 2人は公恵に駆け寄ると、嬉しそうに公恵の手を握ってきた。
「脳梗塞で倒れたって聞いてビックリしちゃったわよ。お見舞いに行けなくてごめんなさい。でも元気そうで良かった!」
「ありがと。楓さん、奈緒さん」
「ねぇ、折角だからお風呂の前に上の食事処でお茶でも飲まない?」
奈緒さんが提案してきた。
「で、でも…」
「ええ、是非!」
戸惑う裕子とは正反対に久しぶりに近所の人たちと再会出来たのが余程嬉しいのか、公恵は大喜びだ。
階段でしか二階に行けないので、杖を使っての階段は公恵には一苦労だと、裕子は半ば心配だった。しかし、楓さんが公恵の背中を支え、奈緒さんが公恵の前を歩きながらゆっくりゆっくりと階段を一緒に登って行く。
「公恵さん、ゆっくり、ゆっくりでいいのよ」
「きみちゃん。後ろは私が支えているから、大丈夫よ」
登っている間も2人は公恵に声をかけ、そのおかげか、普段は自宅アパートの階段も登り切るまで何度も辛そうな表情をしているのに、今はそんな表情をしていない。
時間はかかったが、2人のおかげで何とか階段を登り切った母は息切れはしているものの、その顔は笑顔だった。
「裕子さん、良かったらコーヒーをどうぞ」
裕子にコーヒーを差し出してきたのは早苗だった。
奥の席では母が楓さん、奈緒さん達と楽しそうに談笑し、裕子はその様子を離れた席から見つめていた。
「母があんなに笑っている顔、久しぶりに見ました」
そう言う裕子は母が仲間たちと楽しそうに笑っている姿を喜びつつも、その表情は曇っていた。
「あの方たち、公恵さんがまたここに来るのをいつも待っていたんですよ」
「え?」
「あの人たちだけじゃなく、園芸教室で一緒だった人とか、リハビリ施設で一緒だった方とか。色々な人から「公恵さんは来てる?元気してる?」って訊かれました」
「……」
「訊かれる度、公恵さんは人気者だなぁ〜って思っていました」
知らなかった。母を知る人たちが早苗さんに母のことを訊いていたなんて。
「…ねぇ、裕子さん、ちょっと来てくれる?」
そう言うと早苗は裕子を連れて下の脱衣所にやって来た。
脱衣所…以前来た時、母が粗相してしまった場所。
直ぐに早苗さんがタオルを持ってきて、他の人たちもタオルやティッシュを持ち寄り、床を拭き、母の下半身を拭いてくれた…裕子はトイレで母に新しいオムツを履かせると、ちゃんと御礼を言うこと無く、急いで帰り支度をし、母と共に逃げる様に満縁湯を飛び出してしまった。
自分の母親が人前で、しかも昔から馴染みのある場所で、醜態を晒してしまった事が恥ずかしくて、悲しくて…この場所を避けていた。しかし、裕子はいつも何処かで思っていた。
『…これは母にとって本当に良いことなのか…』
と。
その疑問は無表情で窓の外を見つめる公恵を見るたびに大きくなっていた。
このままじゃいけない。でもどうすれば…。
「ねぇ、この椅子、公恵さんに使って欲しくて取り寄せたの」
早苗さんが持ってきたのは、プラスチック製の背もたれ付きの椅子だ。
「早苗さん、これって…」
「公恵さん、うちにあるお風呂椅子は低いから、座るのが大変だと思って。元々外気浴用の椅子だけど、これなら負担なく座れると思うの」
「これ…母のために…」
あの時、迷惑をかけてしまったのに。お詫びを入れることもなく、疎遠になっていたのに、早苗さんは母の事をいつも心配し思っていてくれたなんて。
「まぁ!これが早苗さんが言ってた『公恵さん椅子』ね!」
振り向くとさっきまで食事処にいた公恵達3人が脱衣所に来ていた。
早苗さんは公恵用に取り寄せた背もたれ椅子を早速浴室内の入り口に近いシャワーの前に置いた。それなりの大きさなので行き来する人の邪魔にならないか心配だったが、いざ置いてもらうと、特に他の人の行き来を邪魔することなく、すんなり浴室内の光景に溶け込んでいる。
「早速入りましょうよ!」
奈緒さんが言うと、公恵の手荷物をロッカーに入れてくれて入浴の準備をし始めた。
「あ、あの、私が…」
「裕子ちゃんも。公恵さんは私たちが身体を洗うから、今はゆっくり温泉を楽しんできて」
2人は手慣れた様子で公恵の服を脱がしては丁寧に畳んでくれただけでなく、脱衣で身体が冷えない様に大きいタオルを掛けてくれたり。
公恵の左半身の麻痺を理解してくれている2人は決して無理させる事なく、どうすれば公恵が負担無く出来るか…だけを考えてくれているようで。その思いが公恵にも通じたのか、いつもなら脱衣の際でも自力で何とかしようとして、しかし上手く出来ず健康だった頃と違う身体に失望する場面を何度も目にしていた。
でも今は、仲間の2人が伸ばしてくれる手を取りながら、1人では困難で時間がかかっていたことを上手にこなしていっている。その中にいる公恵はかつて健康だった頃を思い起こさせる姿だった。
「先に皆で入ってるから、裕子ちゃんも後で来てね」
そう言って、母を両側から支えながら3人は浴室内に入っていった。
「裕子さん、今日は裕子さんも肩の力を抜いて温泉を楽しんできてください」
早苗はそう言うと裕子の肩を優しく撫でた。
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