第十一夜∶鰆の西京焼きと分葱

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第十一夜∶鰆の西京焼きと分葱

3月に入り、少しずつ暖かくなってきた。 最近は夜もコート無しで出歩けるようになってきて、自ずとフットワークが軽くなる。仕事を定時で終えた私は、足取りも軽くいつものスーパーへと向かった。 スーパーに着くとカゴを持ち、順番に回り始める。 (筍に、分葱(わけぎ)…春だなぁ…) スーパーに通い始めるようになってから、イベントものだったり、旬のものだったり、売り場で季節を感じるようになった。勿論、会社でも決算やら確定申告やら季節を感じるものはあるが、そのような無機質な季節感とは全く別物で、五感に心地良いものだった。 (食べたいけど、筍の処理なんか料理ビギナーの私にはハードルが高すぎるな…) 筍の近くに置いてある「米ぬか」と「筍の下処理」と書かれた紙を見て私は諦めた。ネギに似た分葱なら、何とかなるだろうか… 「こんばんは」 「あ、加藤くん、こんばんは」 何処に居たのだろうか、加藤くんが横からひょっこりと顔を出した。エプロンを着けているという事は、今日はまだ仕事中なのだろう。 「どうしました?」 「これ、どうやって食べるか知ってる?」 「分葱ですね。それは根元を落としたら、洗ってそのまま茹でるんですよ」 聞いておいて何だが、知っているのをちょっとだけ意外に思った。恐らく、他の客からも聞かれる事があるのだろう。 「えっ!切らないの?」 「まさか、茹でてから切るんですよ」 私が驚いていると、加藤くんは可笑しそうに笑って教えてくれた。 「そうなんだ、ありがとう」 「いえいえ。旬のものって食べたくなりますよね」と言いながら、崩れてきていた筍の陳列を直す。 ネパール料理を一緒に食べに行ってから半月程経つが、なかなか予定が合わずあれ以来飲みに行っていない。まぁ行かずとも、平日私がスーパーに行くとだいたい彼が居て顔を合わせてはいるのだが。 「今日は何食べるんですか?」 「とりあえず分葱と…後は適当に」 「良いものが見付かるといいですね」 「うん、ありがとう」 私が再び歩き出すと、彼も別の売り場へと去っていった。普段の会話は、この程度だ。それでも、見知った顔を見ると安心感がある。私はその足で鮮魚コーナーへ向かった。 (おっ、鰆の西京漬けが値打ちじゃないか) 20%引き。まぁ、元値が高めなので決して安いとは言えなかったが、春を感じたい今の気分にピッタリだ。パッケージを見ると、フライパンやトースターでも焼けると書いてある。 (うん、今日はこれに決めた) 鰆のパックをカゴに入れると、私はレジへと向かった。 「さて、やるか」 袖を捲くって調理開始。 先ずトースターのアルミトレイにアルミホイルを敷いて、西京焼きを乗せる。ツマミを捻って加熱開始。 その間に、分葱。フライパンに湯を沸かし、沸かしている間に根を切り落として水洗いする。水洗いしたら沸騰した湯に入れ30秒くらい茹でたら火を止めお湯を切る。まな板に出してカットしたら完成だ。丁度西京焼きもいい感じに焼き上がっている。 「あっ」 分葱を皿に乗せていた私は重要な事に気が付いた。 …味噌がないのだ、分葱に付ける味噌が。 あわててスマホを取り出し、作り方を調べる。 (良かった…家にある調味料で何とかなりそうだ) 鰆が冷めないようにトースターに入れっぱなしで手早く味噌を作る。それはすぐに出来上がり全てをローテーブルに運ぶと、焼酎のお湯割りを用意した。 「いただきます」 まずは焼酎を一口含み、料理を迎え入れる準備をする。そして、鰆。フワフワな身を口に運べば、味噌の上品な甘さと鰆の脂が口の中でとろけていく。そこに、焼酎。三位一体とはよく言ったもので、焼酎を飲む事で料理が完結する。 次に、分葱。あわてて作った味噌を控え目に付けて口に運ぶ。ジャキジャキとした食感に、独特のぬめり。味はネギとニラの中間ぐらいで味噌によく合う。これまた焼酎が進む味だ。 (春だなぁ…) まだ肌寒いが、桜の蕾も日に日に膨らみを増している。春は暖かくて心地よい季節だが、桜を見るとちょっとだけ切ない気持ちになるのは何故だろう。 (桜が咲いたら、花見にでも行くかな…) 予定が合えば、加藤くんも誘ってみようか。 久しぶりにできた友人を思い浮かべ少しだけ楽しい気持ちになった。
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