第十四夜∶桜鯛の刺し身

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「沢山歩いたね」 「本当に!久しぶりにあんなに歩きました」 16時から開いている居酒屋を探し、そこで夕飯を摂る事にした。 まだ開店したばかりの店内に客は私達だけで、貸し切り状態だった。とりあえず注文した生ビールをチビチビ飲みながらペラペラとメニューを捲った。 「和食推しみたいですね」 「そうだね」 写真などはなく毛筆体で書かれた縦書きのメニュー表には、慣れ親しんだ和食の料理名がいくつも記されている。それとは別に、『本日のおすすめ』と書かれた和紙がクリアケースに入れてメニューと共に置かれていた。何気無く見ていると、雄介くんが声を上げた。 「あ!これ注文してもいいですか?」 彼が指差したのは「桜鯛の刺し身」だった。 「いいね、桜鯛」 「花見だったし、妹にも子どもが出来ておめでたいから丁度良いかなって」 「成る程!」 雄介くんらしい考えに、思わず笑みが溢れた。 それからメニューを見ながら、たらの芽の天ぷらや白エビのかき揚げなど、家では作らない(作れない)旬の物を使った料理を中心に注文した。 「そういや写真って撮ったっけ?」 「あ!撮りましたよ!」 流石。 私などスマホは本当に用事のある時しか出さない為、写真を撮るのをすっかり忘れていた。雄介くんはスマホを取り出すと、今日撮った写真を見せてくれた。 「よく撮れてるね~」 「ありがとうございます。でも、写真じゃあそこまで感動できないですね…やっぱり本物見ないと!」 私は大きく頷いた。写真として「記録」はできても、「記憶」に残るのはやはり実物を見た時の感動だった。 「確かに。でも思い出が欲しいから写真送ってもらってもいい?」 「はい!大丈夫ですよ」 「失礼します!お待たせ致しました。桜鯛の刺し身です」 料理が来たので、雄介くんは手早く操作を終え「送信しました」とスマホを置いた。 「「いただきます」」 桜鯛の半透明の身がよく映える、黒っぽい石のような皿に乗せられた切り身を1つ取り醤油を付けて口に運ぶ。 「美味い…!」 「美味しいですね!」 歯を押し返すような弾力がある。鮮度が良い証拠だろう。白身でありながら、しっかりとした味を感じる。 続いて運ばれてきたたらの芽の天ぷらと白エビのかき揚げも、今しか食べられないお楽しみだ。 たらの芽の天ぷらはホクホクとしてほろ苦く、大人の味。一方白エビのかき揚げはクリスピーでビールによく合った。 「ちょっとお腹に溜まるものも頼んでいいですか?」と雄介くんが注文したのは筍ご飯。ナイスチョイス、と私は心の中で呟いた。筍もまた、処理が面倒で自分は絶対に買わない。 「筍って美味しいけど処理が大変ですよね」 「そうそう!食べたいんだけどね」 どうやら同じ事を考えていたらしい。 思わず笑ってしまった。 それから更に何品か注文し、飲みながら話しながら食べて店を出る。ゆっくり食べていたので2時間は居ただろう。時間は早かったが、辺りはすっかり暗くなっていた。 「まだちょっと早いけど、明日仕事だよね」 「はい」 「この辺で解散にしようか」  一瞬寂しそうな顔をしたが、雄介くんは素直に頷いた。 「またお出かけしましょうね」 「そうだね」 分かれ道。 私は右の道へ 雄介くんはこの信号を渡って反対側の道へ行く。 青だった信号が点滅し、赤に変わった。 「休みが合えばいいんですけど」 「仕方ないさ」 ―1回 「次は何処にしましょうね?」 「行きたい所とかあるの?」 「うーん…夏なら花火とか」 「だいぶ先だな」 ―2回 「あ、日帰り温泉とか行くって言ってませんでした?」 「え?うん、たまにね」 「いいところあったら、連れていって下さいよ」 「僕は構わないけど、雄介くんが辛くない?時間的に」 ―3回 「若いから大丈夫です!」 「ははは、そうかい。考えておくよ」 「お出かけはまだ先になるかも知れないですけど、それまでにまたご飯は行きましょうね」 「うん、また都合良い日に」 ―4回目、信号が点滅して赤に変わる。 「今日は本当にありがとうございました」 「こちらこそ、ありがとう。気を付けて帰ってね」 「貴文さんも。お休みなさい」 「お休み」 5回目の信号で、ようやく彼は横断歩道を渡り帰って行った。その背中を見送り、私も帰路につく。 (あ…) 自宅アパート前の信号待ち。 ふと思い出してスマホを開き、雄介くんから貰った桜と菜の花畑の写真を待ち受けにした。 信号が青になる。 スマホをポケットに突っ込むと、私は足早に部屋へと向かった。
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