第三夜∶おでん

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第三夜∶おでん

暦の上では節分が終わり立春もとうに過ぎたが、まだまだ寒さが厳しい。そうかと言うと、急に暖かくなったりする。三寒四温とはよく言ったものだ。 スーツの上から冬物のコートをきっちり着込んだ私は、足早にスーパーへと駆け込んだ。店内は食料品を扱っているからお世辞にも『暖かい』とは言えなかったが、屋内に入るだけで随分と温度が違った。 (寒かった…) 指先まで冷たい。 手袋をはめたままカゴを持つと、店内を物色し始めた。とにかく、暖かい物が食べたい。真っ先に浮かんだのは鍋だった。最近は色々な鍋つゆが売っているし、作るのも簡単で温まる。しかし… (皆考える事は同じか) 白菜が二分の一カットの物しかなく、思わず苦笑いした。四分の一ならまだ何とかなるが、鍋以外に使うとしても二分の一は多すぎる。キャベツもまた然り。料理暦の浅い私が鍋に入れる野菜といって考えつくものも限られていて、白菜、キャベツが使えないとなると鍋は厳しかった。 (シチューか…でもシチューじゃツマミにならないしなぁ…) あくまで飲む事前提だ。 とりあえず、一旦野菜コーナーから離れようと歩き出した時だった。野菜コーナーの反対側にある、豆腐や大豆製品、練り物や日売品の棚が目に留まった。 (お!練物が半額じゃないか) 棚の隅にひっそりと置かれていたのは、2人前くらいのおでんだねセットだった。昨日までは3月上旬くらいの気温だった為、仕入れていた分が売れ残ってしまったのだろう。それも、今日のこの寒さで一気に売れたのか2袋しか残っていなかった。奇跡的に残っていたその内の1袋をカゴに入れる。 (何々、練り物以外におでん用の出汁と蒟蒻は2つ入っているんだな…じゃぁ後は大根か) しかし、よく考えると短時間で大根に味を染ませるのは不可能だ。芯まで柔らかく味の染みた大根は好物だが、仕方ない。諦めて練り物と蒟蒻オンリーのおでんにしよう。 「こんばんは!」 「あ、こんばんは」 後ろから挨拶され、振り返ると加藤くんがニコニコしながら立っていた。 「今日は急に寒くなりましたね…あっ、おでんですか?」 「うん、久しぶりに食べたくなって」 欲しかった野菜が売り切れてたから、なんて言ったらきっとこの真面目な青年は罪悪感を抱いてしまうだろう。実際、おでんも久しぶりに食べたかった為嘘はついていない。 「僕はコンビニで買っちゃうなぁ…」 カゴの中を覗き込みながら加藤くんが呟く。 あの肉じゃがの一件以来、以前よりよく話すようになった。考えてみれば、スーパーなど店員も客も圧倒的に女性が多い中で毎日仕事をしているのだ。男性の常連で、更に気軽に話が出来る客は彼にとって貴重な存在なのかも知れない。 いつも礼儀正しくにこやかな彼に懐かれるのは、こちらも悪い気分ではなかった。 「確かに、コンビニおでんって手軽で美味いよね」 「いつも作られるんですか?」 「今日はたまたまだよ…っていうか、そんなに食べないけど、たまーにね、食べたくなる」 「あ、分かります」 顔を見合わせて、どちらからともなく笑った。三十路だと言っていたが、笑うといくらか幼く見える。ふと、いつも着けているエプロンが無い事に気付いた。 「今日は仕事終わったの?」 「あ、そうなんです!遅番のパートさんが見付かって、これからはちょくちょく早く帰れるようになるんです」 「そうか、それは良かったね」 嬉しそうに話す彼に相槌を打つ。 こういったスーパーは、社員よりパートメインでシフトを回す。当然パートは主婦が多い為、必然的に彼は遅番のシフトが多くなっていたのだろう。 「増々自炊も捗るんじゃないかい?」 ニヤリと笑いながら半ばからかうように言うと、彼も笑いながら「そうですね」と頷いたので内心少しだけ驚いた。本当に自炊を始めたのだろうか。 「自炊のお話を聞いて、レシピを調べたり動画見たりして見様見真似で何回かやってみたんですけど、意外に何とかなりました。常連のおばちゃんやおばちゃん達との話のネタにもなるし、暫く続けてみようかなって」 「おお!それは良いことじゃないか。お役に立てて良かったよ。じゃぁ」 せっかく早く帰れるのに長々と引き留めては申し訳ないと思い、話を切り上げ踵を返した時だった。 「あ、待って下さい」 逆に引き留められ、驚いて振り向く。 「どうしたの?」 「あの…ご迷惑でなければ、名前、教えて頂けませんか?」 「よくお店にも来て頂いてお話してるのに、ずっとお名前聞けなくて」と困ったように笑った。一常連客の名前を知った所で、と不思議に思ったが、普段名札を付けている彼からしてみれば、客の方が一方的に名前を知っている事になる。 「別に、構わないよ。永井といいます」 「長井さん」 「うん、短い長いの長じゃなくて、永遠の永ね」 音だけだとよく間違われるので捕捉して説明すると、彼は少しだけ可笑しそうに笑って「永井さん」と小さく呟いた。 「僕は加藤っていいます」 「うん、いつも名札付けてるから実は知ってた」 お互い顔を見合わせて笑う。 「また、お待ちしてます、永井さん!」 「加藤くんもお疲れ様」 笑顔で手を振る加藤くんにほっこり癒され、レジを早々に済ませると冷たい風の中を足早にアパートへと向かった。 今日はいつもと勝手が違う。帰宅して手洗いを済ませすぐ湯沸かしのスイッチを入れると、台所に向かった。 おでんを少しでも煮込みたかったからだ。大根や卵はないから、10分、15雰囲気も煮れば食べられるだろう。土鍋なんてものは無いから、肉じゃがを作った時の片手鍋を出し、おでん種を鍋の中にあける。附属の出汁を入れたら水で稀釈して火にかけた時、タイミング良く湯沸かしが鳴った。 (今の内に風呂で温まろう) じんじんと冷える手足と身体を充分温めた筈だが、風呂から出るとひやり寒さを感じた。慌ててスウェットに着替えると、タオルで頭を拭きながらいい香りが漂う台所へ向かう。 おでんはグツグツと音をたて、いい感じに煮込まれていた。今日は寒いから焼酎のお湯割りにしよう、と電気ポットに水を入れカチリとスイッチを入れる。この電気ポットは優秀で、容量こそ少ないものの、すぐに湯が沸く。 ローテーブルに鍋敷き、取皿、箸を用意し、おでんを運ぶ。焼酎とコップまで用意し終った時、「カチッ」と音がして湯が沸いた。沸かしたてのお湯で、お湯割りを作る。 「いただきます」 まずは焼酎を一口。 (温まる…) 熱い液体が喉から胸へ流れ落ち、腹からポカポカと暖まってくる。一旦落ち着いた所へ、おでんを迎え入れる。 煮込み時間は短かったものの、練り物だから元々柔らかい上ある程度味がついている。練り辛子をすこし付けて頬張れば、ツン、とした辛さが脳天をついた。水割りであればここでグイッといきたい所だったが、今日はお湯割りだ。少し辛さが落ち着いた所にゆっくり酒を流し込むと、焼酎の甘みが口の中を落ち着かせてくれた。ふぅ、と息をつきテーブルの上を見ると、野菜が一つも無い事に気が付いた。冷蔵庫にはキュウリとトマトを常備しているからある筈だが、一度座ってしまうと動くのが億劫だった。 (毎日じゃないし、たまにはいいか…) 健康の為、毎日何かしら野菜を摂るようにしているが、それにしても常備しているのがキュウリとトマトだけというのもいかがなものか。 (何か野菜買っとけばよかったな…話してたから色々買い忘れたのか) 苦笑いしたが、嫌な気分では無かった。 スーパーで加藤くんと話した事で、ほっこり癒やされていた。身体の健康ではなく、心の健康を買ったと思えば良い。 (彼はお酒とか飲むんだろうか…) あまりイメージが湧かなかったが。 そんな事を考えながら再び熱いおでんを口に運び、焼酎を口にした。
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