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第二十三夜∶たまご粥
―ピピピッピピピッ
38.0℃
ふぅ、と私は熱い溜息をついた。
翌日、案の定体調を崩してしまった。
頭痛がするし、身体中が痛い。ゴソゴソと引き出しから風邪薬を探し出して、とりあえず飲む。本当は何か口にしてからの方が良いのは知っているが、すぐに食べられるものも無かったし、そもそも食欲がない。
朝イチで会社に休みの連絡を入れると、フラフラとベッドに横になった。
(確か…スポーツ飲料とサプリメントのサンプルがあったよな…)
ボンヤリする頭で考えながら身震いした。
暑いのに、寒い。夏風邪は変な感じだ。
薬も飲んだし、とりあえず寝られるだけ寝よう。私はカーテンを閉めると無理矢理目を閉じた。
気が付いたら寝ていたようだ。
スマホの時計を確認すると、14時過ぎ。薬が効いたのか頭痛は無くなり、気分もいくらかマシになっている。生あくびを噛み殺しながら起き上がり一つ伸びをすると、冷蔵庫を開けた。小腹が空いたのだ。
しかし目ぼしいものと言えば、卵とキムチと豆腐ぐらい。野菜はきゅうり、トマト、ネギ、玉ねぎ、ジャガイモ、人参…作ろうと思えば作れるのかも知れないが、生憎今の身体の状態ではマトモに料理などできそうにない。と言うより、
(何にも浮かんで来ない…)
久しぶりに熱を出した為、こんなもんだったかと苦笑いする。とりあえず何か口にしようと、味噌汁に使おうと思って買っていた豆腐を取り出し冷奴にして食べた。ひんやりした豆腐のツルンとした食感が、舌と喉に心地良い。
あっという間に食べ終わると薬を飲み、再びベッドに転がった。ラジオを点け、ベッドの上でゴロゴロして過ごしていると再び眠気に襲われ私は目を閉じる。
―ピコン
ライン通知で目を覚ました。
少しだけ怠さの残る身体を動かし、ボンヤリした頭のまま画面を確認した。
『お疲れ様です。
今日スーパーに来ませんでしたよね?
もしかして会社休みました?』
雄介くんからだ。
時計を確認すると、いつもスーパーに行く時間はとっくに過ぎ、帰宅して夕飯を作っているくらいの時間だった。
心配をかけてしまうかも知れない、と思いつつスルーする訳にもいかず、とりあえず返事をした。
『お疲れ様。
うん、ちょっと体調崩しちゃってね。
でも大丈夫。明日には治るよ』
出張が入って、とか、会社の飲み会があって、とか。
だから出社したけどスーパーに行けなかった、と。
彼に心配をかけたく無いのであれば、嘘をつく事はいくらでもできた筈だ。しかし、出来なかった。身体が弱っているから、心のどこかで彼に対する甘えが出たのかも知れない。メッセージを送信すると、すぐ返事が返ってきた。
『大丈夫ですか?
何か必要な物はありませんか?
手伝える事とかありませんか?(・_・;)』
素直に、嬉しかった。
自分が弱っている時に、心配してくれる人がいる心強さ。ほんの僅かな甘えを聞いてくれる優しさ。
私は心の中でありがとう、と呟きながらメッセージを打ち込んだ。
『大丈夫だよ。
雄介くんもお疲れ様。ラインありがとう』
送信。
するとすぐ、『お大事に』のスタンプが返ってきた。それだけだったが、私は充分満足した。
再び目を閉じる。腹は減ったが、作る気力もない。もうこのまま寝てしまおうか。そう思いゴロゴロしていたが、昼間寝すぎたせいかなかなか眠気はやってこない。
―ピンポーン
「……え」
ゴロゴロして、どれくらい経っただろうか。
部屋のチャイムが鳴って驚いた。フラフラと立ち上がると、ドアを開ける。
「雄介くん…」
そこには、ビニール袋を持ちマスクをした雄介くんが心配そうな顔で立っていた。
「貴文さん、本当に大丈夫ですか?心配で…来ちゃいました…」
「ありがとう」
自分でも情けないくらい弱々しい声が出た。
身体はかなり回復してきている。この調子なら明日は会社に行けるだろう。しかし、ここで雄介くんに上がってもらって、万が一風邪をうつしてしまってはいけない。
頭では、分かっている。
しかし、「ちょっとキッチン借りますね」と中に入ってくる彼を止めることは出来なかった。きっと、全部風邪のせいだ。
「横になってて下さい。熱は?」
「朝はあったけど、今は落ち着いてると思う。測ってみるよ」
私はローテーブルに置きっぱなしだった体温計を脇に挟み、ベッドに座る。
「薬は飲みましたか?」
「飲んだ」
「食欲は?」
「そこそこ出てきた」
「じゃぁ大丈夫そうですね」とニコリと笑いキッチンに立って作業をする雄介くんは、まるで母親のようだった。
「仕事終わりに来てくれたの?」
「はい」
「疲れてるのに、ごめんね」
「全然!僕が好きでやってるんですから」
―ピピッピピッ
「37.5℃」
「まだ微熱がありますね」
「うん、でも今朝に比べるとだいぶ楽だよ」
「油断は禁物ですよ?」
「はーい…」
どちらが歳上だか。
しかし、雄介くんが私より遥かに面倒見がいいのは確かだった。元より兄という立場で育ってきたせいかも知れない。弟として育った私は昔はいいように兄に甘えてきたが、思春期辺りに兄から離れ始めいつの間にか甘え方を忘れてしまった。
ゆえに、彼女や友人ができても上手く甘える事ができず、いつの間にか「一人で何でもやれる人」「一人でも大丈夫な人」のレッテルを貼られてしまい今日に至る。
しかし実際、就職して一人暮らしを始めてみて分かったのは、自分は一人でも割と大丈夫だったという事だ。日常生活で必要最低限の事はできるし、休みも何と無く時間を潰して過ごす事ができた。まぁ前述した結婚直前までいった彼女ともそれが原因で別れた訳だが。
ごちゃごちゃと考えていると、いい香りが部屋中に漂ってきた。ふと顔を上げると、大きめな丼を両手で包み込むように持ち、雄介くんがローテーブルの方にやってきた。
「はい、たまご粥です。まともに食べてないでしょ?」
とん、とテーブルに置かれた丼には白と黄色の鮮やかなたまご粥がたっぷり入っていた。少しだけ散らされた緑のネギが彩りを添える。ふんわり香る鰹出汁の香りに空腹を掻き立てられ、グゥと小さく腹の虫が鳴いた。
「ありがとう…いただきます」
「たくさん食べて下さいね」
にっこり笑って向かいに座る雄介くんは母親を通り越してもはや聖母に見える。うっかり涙腺が緩みそうになるのを堪え、夢中でたまご粥を口に運んだ。
「美味い…」
「良かった」
忖度なしで、本当にここ最近食べたものの中で一番美味しいと思った。顆粒だしと、玉子と、ご飯と、ネギ、ちょっとの醤油。多分使ったものはこれくらいなのだろうが、今の私には、それが何の高級料理に勝るとも劣らないご馳走だった。
じっと私を見ている彼の目は慈悲深く優しい。
「あ、そう言えば雄介くんは夕飯は?」
「僕の事はいいですから」
「いや、そういう訳には」
「気になります?」
「……うん」
仕事終わりに直で着てくれたのだったら、雄介くんは夕飯を食べていないではないか!今更ながら気付き、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
私が食べる手を止めると、彼は困ったように笑い自分の荷物の隣に置いてあったビニール袋をガサッと持ち上げた。
「慌ててたら職場で弁当買い忘れちゃって…コンビニ弁当です」
「ごめん、何か悪いことしちゃったね…」
だから気にするなと言ったのか。
いつもなら気が回りそうな所も、頭がまだ正常に働いていないようだ。軽い自己嫌悪に陥った時、不意に「貴文さん、」と呼ばれて顔を上げる。
「この前泊めてくれた時、僕に『色々気にしすぎ』って言ったじゃないですか?」
「…ん?うん」
「その言葉、そのままそっくり返します」
「え」
「僕…フラットな関係だからって言ってくれた事が凄く嬉しかったんです。だから、貴文さんも気にし過ぎないで下さい。ライン送ったのも、今日ここに来たのも僕の意思なんです。頼りないけど…僕にも甘えて下さい」
「雄介くん…」
「さ、冷めない内に食べて下さいね!」
恥ずかしくなったのか、彼は顔を赤くして言う。私は嬉しくて、今度こそ本当に泣きそうになった。これもきっと、身体が弱っているせいだ…。
ぐっ、と耐えながら絞り出した声は掠れていて。
「じゃぁ…一緒に食べて?」
「へ…?」
キョトン、とする雄介くんを前にして少しだけ恥ずかしくなり視線を微妙に逸らす。
「甘えていいんでしょ?…一緒に食べたいな」
「勿論です!」
「寂しいから」という言葉は飲み込んだが、彼には十分伝わったようだった。ニコリと笑いコンビニ弁当を取り出すと、「いただきます」と食べ始める。
彼が弁当を口にしたのを見て、私も再びたまご粥を口に運んだ。
「もしこれで雄介くんが風引いたら、責任持って僕がお世話しに行くよ」
「若いからこれくらい大丈夫です!」
「言ってくれるね」
お互い顔を見合わせて笑う。
彼の笑顔と作ってくれたたまご粥は、どんな薬よりも効いたような気がする。私はたっぷりあったたまご粥を全て平らげた。
明日は元気になりそうだ。
ありがとう、雄介くん。
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