第二十九夜∶棒々鶏もどき

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第二十九夜∶棒々鶏もどき

(終わったぁ~) と、心の中で叫ぶとデスクの椅子に凭れてグッと身体を伸ばした。 まさか今日の今日で出社すると思っていなかったのだろう。私がオフィスに入った時皆は驚いたような顔をしていたが、脇目も振らず自分のデスクに向かうとすぐ出張報告書の作成にかかった。 私に出張を命じた上司は席を外しており、報告書が出来上がる寸前にオフィスに戻ってきた。私の姿を見るなり狐につままれたような表情をしたが、無言で自分のデスクにつく。 「失礼します。報告書です」 「お、おお…ありがとう。出張お疲れ様。流石永井クン、仕事が早いな」 「いえ」 「明日は休みだったよね?十分に休んでくれたまえ」 一刻も早くその場を離れたくて、無言で一礼しデスクに戻る。 「急な出張、お疲れ様でした」 「ありがとう。私が不在の間困った事は無かった?」 気を遣って声をかけてきてくれたのは、少し前に仕送りの質問に答えてくれた若手の男性社員だ。若いがなかなか優秀な人材で、私が不在の間の仕事を幾つか頼んでいた。 「はい、他の先輩方にも聞きながら何とか」 「そうか、良かった」 「ゆっくり休んで下さいね」 「ありがとう」 ニコリと社交辞令的な笑顔を作ると、私は大きな荷物を抱え会社を後にした。 (会えるといいな…) 荷物は重く身体も疲れているが、不思議とスーパーへ向かう足取りは軽い。はやる気持を抑え、スーパーに着くと仕事鞄を引っ掛けたキャリーを引きながら片手にカゴを持ち、いつも通り野菜コーナーへ。 「あ……」 「………えっ?」 視線の先、野菜の陳列棚の所に雄介くんが居た。 彼は私を見て一瞬固まり、何度か目をしばたいた後、目を擦る。 「こんばんは、加藤くん」 「永井、さん……あれ?本物…?」 「はははっ、どういう事?」 雄介くんの不思議な発言に私は思わず吹き出したが、彼は笑ってはいなかった。まだ呆然と私の方を見ているので、近寄ってその手に指先だけ触れた。 「ほら、本物」 「本当だ…」 彼は一瞬驚いたように大きく目を見開いたが、次の瞬間、ぐっと目を細め泣きそうな顔で笑った。そして私が引っ込めようとした手を捕まえてギュッと握る。 「加藤くん…?」 いきなり縮められた距離に戸惑い、どう反応していいか分からず覗うように名前を呼んだが、握られた手はそのままだった。 「本物の、永井さんだ…」 「うん」 まるで独り言のような彼の呟きに何故か胸が締め付けられ、私もそうやって言うのがやっとだった。少し間を置いて、ようやく言葉を絞り出す。 「…手、離さなくていい?今仕事中でしょ?」 「あ!すみません」 ハッと我に返り、雄介くんは私の手を離して苦笑いした。 「お仕事の邪魔しちゃったみたいでごめんね」 「いえ!全然!…出張、お疲れ様でした」 私を見た瞬間、彼は仕事の手を止めてしまった。 彼を避ける訳ではないが、これ以上ここに居たら仕事の妨げになるし、何より彼の反応を見ていたら、友人や客としてまた近付き過ぎてしまいそうで怖かった。 元気そうな顔を見られただけで十分だ。 「ありがとう。今から夕飯の買い物するから、またね」 「あ……はい」 彼がこちらに伸ばしかけた手に気付かない振りをして、私はその場を離れた。 (会えて良かった) 心が、満たされた。 次は、腹を満たさねばならない。 さて、切り替えてここからは夕飯のアテ探しだ。私は鮮魚コーナーをチラリと覗く。既に刺し身や切り身など、値引きされたものがチラホラある。 (昨日は寿司だったし…今日は肉にするか) 鮮魚コーナーをさらりと見て精肉コーナーに移動する。精肉コーナーにも、値引きされたパックがあった。 (ササミか…) 普段余り買わない部位だが、何と半額。滅多にお目にかかれない値引き率に惹かれパックを手に取った。問題は食べ方だ。疲れている為手の込んだ調理はしたくない。加えて、連日の暑さで食欲もさほどない。簡単で、サッパリ食べられるもの… (茹でてからドレッシングで野菜と食べるか) そう、イメージは中華料理の棒々鶏。 野菜も切るだけで食べられるキュウリとトマトが使われていた筈。私はササミのパックをカゴに入れると、きゅうりとトマトを買いに再び野菜コーナーへ向かった。3日間家を留守にしていた為冷蔵庫は空っぽだ。 野菜コーナーに既に雄介くんの姿は無く、私はお目当てのキュウリとトマトをカゴに入れた。 (あ…) 目についたのは、見切りの棚にあったミョウガだ。大葉に次いで好きな薬味の一つである。サッパリ食べたい今の気分にピッタリだ。これも切るだけで食べられるのでカゴに追加しレジへと向かった。 「さて、やるか」 帰宅後、直ぐシャワーで汗を流したいのをこらえ、夕飯に有り付く為にちょっとだけ作業する。エアコンを点けると動けなくなるから、エアコンも我慢。代わりに窓を開け換気をする。 ササミを片手鍋に入れ、被るくらいまでの水と少しの酒を入れ火にかける。 (沸騰するまでに、荷解きしてしまおう) キャリーバッグを開け洗濯物を取り出すと、洗濯機に放り込んだ。スーツは明日クリーニングに出す。洗濯機を回してから鍋を見ると、丁度沸騰していたので火を止め、鍋に蓋をした。額から汗が滝のように流れ落ちる。暑い。私は窓を閉めるとエアコンのスイッチを入れ、ようやくシャワーに向かった。 (ふぅ…サッパリした) エアコンを点けた部屋の快適な事。 洗濯物だけ干してしまってから、私は残りの調理に取り掛かった。メインの肉は仕上がっているから、後はキュウリとトマトとミョウガを切るだけだ。キュウリとミョウガは千切り、トマトは薄切りにし、平皿に盛る。その上に先程の茹でたササミを手で裂きながら乗せる。最後にゴマドレッシングをかけたら完成だ。 出張中はビールだったから、今日は芋焼酎のソーダ割りにした。夏は炭酸の爽快感がたまらない。 「いただきます」 いつもの部屋、飲み慣れた焼酎。 (あー…落ち着く…) 一息つくと、棒々鶏もどきに箸を伸ばす。キュウリ、トマト、ミョウガ、ササミを一度に箸で取り口に運ぶ。茹でてから湯の中で保湿されたササミは旨味を蓄えつつしっとりとしており、そこにキュウリのシャキシャキ感、トマトのフレッシュ感が加わる。思い付きで入れたミョウガがまた何ともいい仕事をしており、ゴマドレの濃厚さの中に爽やかさとキレを加えている。 「うま…」 これなら食欲が無くともするすると入っていきそうだ。食べながら飲みながら、やはり家が一番だと実感する。 …それにしても。 雄介くんに会えて良かったのだが、あの反応は何だったのだろうか…。自惚れかも知れないが、少なくとも会えた事を喜んでくれていたように見えた。しかし、泣きそうになっていたのは何故だろう…? 先に一歩引いたのは、雄介くんだった。 私も彼のパーソナルスペースに踏み込みすぎたのかも知れない、と距離を取った。 改めて、握られた方の手を見る。 彼の手は微かに震えていたような気がした。 何だろう、今日は一歩引いていると言うより、何かを必死に堪えているように感じた。 (…一度ちゃんと話をするべきか) でも、何を? 変に拗らせてしまった友人関係を、それでも繋がっていたいと思ってしまうのはエゴだろうか。 (今は食事に集中しよう) 私は思考を振り払うように頭を軽く振り、食事を再開した。
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