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第三十四夜∶常夜鍋
日中は過ごしやすいのだが、朝晩はだんだん肌寒くなってきた。なので日によっては晩酌のアテに温かいものが欲しくなる。
私は早々と日が暮れていく道をいつも通りスーパーへ向かった。
(…さて、今日は何があるかな)
カゴを持ち、野菜コーナーを見る。相変わらず秋の味覚であるきのこが目立つ場所に陳列されており、その端にはきのこを使うアヒージョの素や炊き込みご飯の素が置いてある。
その中に「きのこ鍋のつゆ」を見付け、もう鍋かと季節の移り変わりの早さを感じた。
(でも今日はきのこって気分じゃないんだよなぁ。でも最近野菜不足ぎみだし、何か野菜を食べなきゃ…)
何気無く見切りの棚に目をやると、ぱっと目に入ったのは小松菜。めちゃくちゃ好き、という訳では無いのだが「健康の為に食べなければ」という意識が働きカゴに入れた。しかし、問題は食べ方だ。真っ先に浮かんだのは中華の「青菜炒め」だが、あれは油を大量に使うため「健康的」とは程遠い。
(うーん…)
考えながら鮮魚コーナーを覗く。値引きの品はいくつかあったが、どうも小松菜に合わせる海鮮が浮かばなくてそのまま肉のコーナーに向かう…その、途中だった。
「カボスの果汁入りポン酢、新発売でーす!いかがですかー!」
調味料売り場の前で、新発売のポン酢をPRしている声に足を止めた。いつもならこういった場所はスルーしてしまうのだが、「カボスの果汁入り」というワードに惹かれた。
「あっ、お兄さん!ポン酢、良かったら味見してって!」
「あ…はい」
ちょっとふっくらした愛嬌のあるオバチャンが、試食用の小さなトレイをズィと差し出した。その上には味噌汁に入っていそうな小さな豆腐に、カボスの果汁入りポン酢がかけられたものが乗っている。勢いに押され、つるん、と一口。
「お…」
思わず小さな声が出た。はっきりカボスの風味が感じられ、思いの外美味しい。オバチャンがニッコリ笑った。
「お兄さん、料理するの?」
「え…はい、まぁ」
「今日のメニューは決まった?」
(グイグイくるなぁ…)
そう思ったが、これは逆に夕飯のメニュー決めのヒントになるかも知れない。私は逆に質問してみた。
「小松菜をメイン料理としてサッパリ食べられるメニュー、何かありますか?」
「小松菜かぁ…そうねぇ…」
一瞬思案顔になったが、すぐに何か思い付いたようにパッと顔を上げた。
「常夜鍋とかどう?」
「常夜鍋?」
初めて聞く名前に私は首を傾げた。
「そう。鍋に昆布、酒、水を入れて火にかけるの。沸騰前に昆布を出して、沸騰したら小松菜、豚肉を入れて、火が通ったら完成。鍋のまま食卓に運んで、ポン酢をつけながら食べる。本当はほうれん草でやるんだけど、小松菜でもイケるわよ」
「へぇ…」
要は、具がシンプルな豚しゃぶといった所か。これなら嵩も減って一袋食べ切れそうだし、タンパク質も摂れる。ヘルシーだし、何より簡単だ。
(さすが主婦)
「これ、買います」
「ありがとうございまぁす!」
若干ノセられた感が無くは無かったが、ポン酢と共に夕飯のヒントも買ったと思えば良い。私はポン酢をカゴに入れると、豚肉を買うべく精肉コーナーへ向かった。
「こんばんは」
「あ!永井さん、こんばんは」
今日、雄介くんは精肉コーナーで値引きシール貼りをしていた。挨拶を交わすと、彼はカゴを覗き込んだ。
「あっ!あの新発売のポン酢、買うんですね」
「うん、ちゃんとカボスの風味がして美味しかったよ」
「へぇ…僕も後で味見させてもらおうかな。あ、肉見ます?」
「うん」
鍋に良さそうな薄切りの豚肉を探す。すると、値引き率は低かったが10%引きのシールが貼られた豚モモ肉の薄切りを発見した。本当は豚バラとかの方がコクが出て美味いのだろうが、折角だから今日はヘルシーに済まそう。私はシールが貼られた豚モモ肉のパックをカゴに入れた。
「今日もお疲れ様です」
「ありがとう、加藤くんもお疲れ様」
今日もその笑顔に癒やされ、私はレジに向かった。
「さて、やるか」
とは言っても、調理は簡単。
オバチャンに言われた通り、鍋に昆布と酒を入れて水をはり、火にかける。沸騰するのを待つ間に、小松菜を適当な大きさにザクザクと切る。
沸騰直前に昆布を引き上げ、小松菜と豚肉を入れ肉に火が通ったら完成。
予め鍋敷きをしいたローテーブルに運ぶ。カボスポン酢も、忘れずに。鍋が熱いので、酒は焼酎の水割りだ。
「いただきます」
ひんやりした焼酎が喉に心地良い。
火から下ろしてもまだ微かにふつふつしている鍋から小松菜と豚肉を箸で取ると、ポン酢にくぐらせて、パクリ。
「んー!」
豚肉と、小松菜。
潔いくらいシンプルな組み合わせだが、カボスポン酢のお陰で味に華やかさが加わり、十分メイン料理の貫禄を醸し出している。
サッパリあっさりしているが、酒にもよく合った。
(身体が喜んでる…気がする)
たまにはこんな健康的な料理も悪くない。
カボスポン酢、買って正解。もう少し寒くなってきたら、しゃぶしゃぶや湯豆腐もいいな。鍋をするなら
雄介くんも誘ってみようか。
(……ん?)
最近、事あるごとに彼の顔が浮かぶ気がする。
特に晩酌をしている時など「今日は何を食べてるのかな」とか、美味しいものを食べると「一緒に食べたいな」とか。
(いくら一緒にいたいと言われたからって、意識し過ぎだよな…)
しかし、意識するというより無意識に彼の顔が浮かんでしまうのだから仕方ない。先日ランチに一緒に行って以来、その頻度は更に増えていた。
以前と同じような距離感で付き合うようになってから、以前以上に距離が近付いて行く。ともすれば超えてしまいそうな「友人」としてのライン
……しかし、その先は、
一緒にいたい。
もっと。
欲が出る。
でも、近付き過ぎてしまうのは怖い。
前みたいに離れていってしまったら。
ある程度の距離を、保たなければ。
でも、そう思えば思う程、何かに押さえつけられるように胸が苦しくなった。
再び焼酎を口にする。
飲んでいる時だけは、気持ちが少しだけ楽になる気がした。
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