第三十七夜∶鱈のキノコ餡etc…

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ひと通り料理に箸をつけた所で、雄介くんが徐ろに口を開いた。 「……実は今日、店に本社の人が来たんです」 「うん」 「それで………急なんですけど、来月から本社勤務になりました」 「………え?!」 (何故突然こんな時期に?) 余りに急過ぎて、私は思わず手が止まった。 しかし、思い当たる事が無い訳ではない。 「もしかして……あの事件がきっかけ?」 そう問いかけると、雄介くんは軽く目を伏せ小さく頷いた。 「はい…。お客様を守ったという所を評価して頂けたみたいで…。それに、いつまでもあの店舗にいたら事件を忘れられず精神的な回復も遅くなるからとの事でした」 「そっか……」 もっともな理由に、私はただ頷く事しかできなかった。 しかし店舗から本社勤務ということは、理由は何であれ栄転だ。雄介くん自身もずっと本社勤務を希望していたから、ここは素直に喜んで「おめでとう」と言うべきなのだろうが上手く言葉が出てこなかった。 (来月から今みたいに会えなくなるのか……) その事実が、思いの外私の心に重くのしかかる。 いけない、と私は軽く頭を振り笑顔を作った。 「おめでとう。理由はどうであれ、念願の本社勤務だね。スーツも着れるじゃない」 「はい」 雄介くんは無理して笑っているように見え、私は胸のあたりに込み上げてくるものを抑えるのに必死だった。 「ずっと店舗勤務だったから、就活の時のスーツしか持ってなくて…。貴文さんがよければ、一緒に見に行って貰えませんか?」 「勿論だよ」 ―上手く、笑えていただろうか。 料理も美味しいし、話していて楽しい。 けれども、ずっと心ここに在らずといった感じだった。感覚が麻痺して、いつも以上に酒が進んでしまう。 「貴文さん、大丈夫ですか?」 「……ん…、うん…」 心配そうに覗き込む雄介くん。いつも飲むとフワフワした雰囲気になる彼が、今日は飲んでいるのにまるでシラフのようにしっかりして見える。 (いけない、このままだと私が迷惑をかけてしまいそうだ…) 料理は全て食べ切ったし、お酒も殆ど残っていない。私は手元にあった焼酎を飲み切ると「そろそろ行こうか」と雄介くんに声をかけた。 会計を済ませ、外に出る。 ひんやりした風に当たると、少しだけ酔が覚めた気がした。しかしやはり、いつもより酔っている。私は転ばないように慎重に歩いた。こんな所で転んでしまってはいい笑い者だ。 「いつもよりペースが早かった気がしますが…大丈夫ですか?」 「ごめんごめん、心配かけちゃって。大丈夫だよ。 ははっ……情けないな」 自嘲気味な言葉と共に、微かに視界が霞んだ。 「今日は僕が送ります」 「え!まだ体調だって万全じゃないでしょ?腕もまだ治って無いし…」 私は思わず雄介くんの方を見た。しかし、視界に入った彼は私を見た瞬間、驚いたように目を見開いた。 「どうしたの…?」 「どうしたのって……。やっぱり、送ります。 いや、送らせて下さい」 「え?うん……ありがとう」 結局押し切られて送ってもらう事になったが、私を見た時のあの表情は何だったのだろうか。 気になったが、まともに思考できる状態では無かった。一人で帰るつもりだったが、正直雄介くんが一緒に居てくれて良かった。隣で歩いてくれる彼をこれ程心強く思った事はない。 覚束ない足取りで歩いていると、たまに弾みで腕や手が触れる。肌寒い中、その温もりが嬉しくて、ついつい距離が近くなった。 店から自宅まではそう遠くない。 私の住むアパートの前、横断歩道を渡ろうとした時、信号が点滅した。 「急げば渡れますよ」 雄介くんがそう言ってくれたが、私は無言で彼の手を引いていた。足を止め驚いたように私を見る彼の前で、信号は赤に変わる。 「……寂しく、なるね」 その言葉に、彼は大きく目を見開いた。 「毎日、雄介くんの笑顔に癒やされてたよ。 ……スーパーに行くのが楽しみだった。 本当に、ありがと…」 突然、全身が温もりに包まれた。 「雄介くん……?」 「貴文さん……僕も、寂しいです…」 その言葉にハッとして、私はおずおずと彼の背中に腕を回した。 転勤を伝えてくれた時の、あの泣きそうな笑顔は。 自分と同じ気持ちだったと思っていいのだろうか。 信号が青に変わる。 しかし私達は無言で抱擁したまま、暫く動けないでいた。夜遅いため人気(ひとけ)は殆ど無かったが、時折通り過ぎる歩行者や自転車の人が驚いたようにこちらを見ていた。 (そりゃそうだよな、男同士で抱き合ってれば…) ハッとして、身体を離した。 雄介くんが驚いたようにこちらを見る。 「あ……ごめん」 「いえ……」 離れていく温もりを寂しく感じたが、人目が気になりその距離が再び縮まる事は無かった。 再び信号が点滅を始め、赤に変わる。 「ここで大丈夫だよ、送ってくれてありがとう」 「はい……。あの……急なんですけど、スーツ 明日見に行きませんか?」 雄介くんが本社に行くまであとひと月も無かった。 次に予定がいつ合うか分からなかったし、私はふたつ返事でOKした。 「今日も遅くなっちゃいましたし、朝はゆっくりで……そうだな、10時半くらいでどうですか?」 「大丈夫だよ。どうせ目が覚めちゃうだろうし」 そう言って苦笑いすると、彼も軽く微笑んだ。 信号が青に変わった。 「じゃぁ、また明日」 「はい、お休みなさい」 「お休み」 横断歩道を渡り終え振り返ると、まだ雄介くんがこちらを見ていた。小さく手を振るのが見えたので私も手を振り返すと、次は振り返らずにアパートへと入っていった。 彼の最終勤務の日、 同じように手を振って別れる事ができるだろうか…
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