休肝日∶お腹いっぱい

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「………えっ、本社ですか?」 「そう。ずっと異動を希望していたよね?」 久しぶりにスーパーの事務所に出勤すると、スーツ姿の本社の人がいた。僕の姿を見ると労いと心配の言葉をかけてくれたのだが、いきなり改まった様子になると本社からの辞令を伝えたのだった。 「え、でも時期的に…」 「うん、本来ならね。人事異動の時期じゃない。 だから特例だよ」 そう言いながら僕に書類を渡す。 書類には、来月付けで本社のカスタマーサービス部門への異動の辞令が記されていた。 「何でまた……」 「どうして?嬉しくないの?」 「いや、嬉しいには嬉しいんですがあまりに急で……」 「まぁ無理もない」 本社の人は苦笑いしながら僕が異動になった経緯を話してくれた。ざっくり言うと、僕の精神(メンタル)ケア的な意味合いと、お客様を守ったという功績(・・)から今回の異動が決まったそうだ。 「受けてくれるね?」 「…はい」 もとより、平社員の僕に拒否権はない。 (憧れていた本社勤務じゃないか) 書類を改めて見ると、実感が湧いてきた。 しかし素直に喜べないのは、きっと… (今みたいに貴文さんに会えなくなる…) 来月まで、残りひと月もない。 伝えなければ、早く… (どういう反応するだろう…) 同じように、寂しいと感じてくれるだろうか。 「じゃぁ、詳細は追って連絡するから」 「分かりました」 本社の人を見送りデスクの椅子に戻ると、「栄転オメデトウ」と言う皮肉っぽい店長の声がパソコン越しに聞こえてきた。 「ありがとうございます」 ぶっきらぼうに返すと、パソコンのスイッチを入れた。休んでいた間の事務仕事が溜まっている。夕方は現場に出たいから、それまでに頑張って済ませなければ。 躍起になって事務処理をしていると、出勤してきたパートさん達が口々に心配してくれた。その一人一人に丁寧にお礼をしながら僕はひたすらキーボードを叩き続けた。 どれくらい経っただろう。 「加藤さん」 声をかけられ顔を上げる。 「あれ……?真中さん?」 バッ、と時計を見る。 午後12時過ぎ。彼女が遅番出勤するには時間が早すぎる。改めて視線を戻すと、思い詰めたような顔でこちらを見ていた。 「どうしたの?シフト記入なら…」 「昼休憩ですよね?ちょっといいですか?」 「えっ、ちょっと…」 半ば引っ張られるようにして事務所を出る。 そのまま外に出て、店の裏側の人気(ひとけ)が無いとこまで来て彼女はようやく足を止めた。 くるり、とこちらを向く。 「どうしたの…?」 「あの……加藤さん、好きです」 「えっ…」 「気付きませんでした?」 「結構アピールしたつもりだったんだけどなぁ」と彼女は寂しそうに笑った。朝の辞令に引き続き、今日は何という日だろう。僕は呆然と立ち尽くした。 「何で…」 「最初はちょっと格好いいかなぁくらいで、全然そんな風に見て無かったんですけど、研修してくれた時に優しくしてくれたり、他の人のミスもさり気なくフォローしてくれてたり…気付くと目で追うようになってたんです。人柄が好きになりました」 「あ、ありがとう…でも10以上離れてるし…」 「好きな気持ちに年齢は関係ありません!」 「そう……」 ドキリとした。 目の前にいるのは真中さんで。 必死に告白してくれているのに、僕の脳裏には違う人の顔が浮かんでしまった。それから暫く間を置いて、一つ深呼吸した。 「……ごめん」 「付き合ってる人いるんですか?」 真中さんの瞳が揺れた。 一瞬罪悪感のようなものを感じたが、ここは彼女の為にもハッキリ伝えなければならない。 「付き合っている人はいないよ」 「じゃぁ……」 「好きな人はいる」 「……っ!」 真中さんの身体が一瞬強張り、それからフッと力が抜けた。 「…分かりました」 「ごめんね、ありがとう」 彼女には申し訳ないが、正面から堂々と想いを伝えられる事を羨ましく思ってしまった。 近い内に彼女も僕の異動を知ることになるだろう。そうすれば、彼女の気持ちも少しは楽になるかも知れない。 「昼休憩中にごめんなさい」 「うんん。今日シフト入ってるの?」 「はい、17時から」 「わざわざ来てくれたんだね……」 「講義があるから、シフト入るのギリギリになっちゃうので」 そう言って、彼女は困ったように笑った。 「あのさ…1つ聞いていい?何で今日言おうと思ったの?」 「それは…」 彼女は視線を外し、遠くを見て言った。 「この前の事件で加藤さんが怪我をしたって聞いて、心臓止まるかと思ったんです。心配で心配で……助かったから良かったけど、もしどうにかなってたらって考えたら、伝えずには居られなくなって。言っとけば良かったって後悔したくなかったんです。自分の気持ちに変わりは無いから、伝えるのが早いか遅いかだけだなって」 「そっか……ありがとう」 「いえ。じゃ、大学に戻るので」 そう言うと、彼女は颯爽と歩いてあっという間に姿が見えなくなってしまった。 (彼女も僕と同じだったんだ…) あの事件をきっかけにして、彼女は想いを伝える覚悟が決まったのだ。 良くも悪くも、大きくも小さくも、事件を転機に様々なものが変わろうとしていた。
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