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あの人は優しかった。婚約していた私が子どもを産めないと分かった瞬間、養子っていう手もあるんだと私を諭してくれた。でも、その優しさがあまりにも苦しくて、その日のうちに私は2人で住んでいた家を出た。離婚届だけを置いて。
その足で不動産屋に立ち寄って、見つけたこのアパートに住み始めて、ちょうど3年。昨日、あの人から久しぶりに連絡が来た。結婚の報告だった。
正確に言えば、結婚の招待状だったけど、私は不参加に丸をつけて返還した。友人に聞いた話では、できちゃった結婚らしい。
ほっとした。あの人は、私では得られなかったものを得ることができた。私が一生手にできないものを、手に入れた。
でも、安堵と同時に心は荒んで、私は猛烈に死にたくなった。涙はとめどなく溢れてきて、一人ぼっちの我が家が息苦しくて、気づけばミズキくんに連絡をしていた。
会いに来て。私を惨めにさせるこの空間を壊しに来て。そんな願いを込めて送ったメールに、ミズキくんはキラキラした目の親指を立てたスタンプを送ってくれた。
大部分の美味しさを占めるモノが手にできなくなった私の人生って、きっと価値も薄い。親子丼に罪は無いけれど、卵に包まれて存在感がなくなった鶏に同情する。
「だから、避妊具つける必要もないし」
「それで昨日、つけなくてもいいって言ったんだ?」
いつも律儀にゴムをつけてくれるミズキくんのことを煩わしく思ってた。
要らないよ、私なんかに、そんなものつけなくてもいいのに。
その気持ちが昨日とうとう爆発して、八つ当たりみたいに「つけないで」と懇願した。
ミズキくんは戸惑いながら、それでも私のわがままを聞いてくれて、行為中はずっと不安げなカオをしてたのを覚えてる。先に話していればよかった。こんなにいい人を、私は困らせてしまった。
自分に対する苛立ちと惨めさと、ミズキくんに縋ってしまった後悔で、途中泣いてしまった。そんな私を優しく抱きしめて「もう寝よう」って言ってくれた。
私はこの人を、これ以上縛りつけるわけにはいかない。
「そういうことなので、ミズキくんとは付き合えません。ごめんなさい」
「そっか。…そっか、うん…話してくれてありがとう。でも俺、諦めないかな」
「…いや、話聞いてた?」
「聞いてた」
「聞いてなかったでしょ、今の流れじゃ。私、ミズキくんのこといいように利用してたんだよ?」
「うん」
そっかそっか、ってまるで他人事のように頷いて、味噌汁をすする。
まじで、なんなんだこの人。変人か(って5回も寝ておいて今更思うのもどうかと思うけど)。
「俺ね、レイさんのこと好きだよ」
「だから…」
「それだけじゃダメ?」
茶碗を置いて、真っ直ぐに私の目を見つめる。吸い込まれそうな黒い瞳。鼓動が早くなる。あの人は私よりも少し年上だったから、こうやってこちらの感情を探ってくる年下の戦法には慣れていない。
そのままミズキくんは笑って、親子丼を一口食べた。
「なんか隠してんだろうなとは思ってた。レイさん、いつも一線引いてたから。でも昨日、初めて誘ってくれてさ、やっと近づけたと思ったのに、告白したら今度は諦めろって言うの?ずるいよ」
「…だって…」
「いいように利用してよ。俺はそれでいいよ」
「……」
「一緒にいたい。だってレイさんの作る親子丼、すげぇ美味しいし」
「…何それ」
覚悟がガラガラと崩されていく。涙が溢れる。脈絡のない告白でも、私はこんなにときめいてる。
私、なんで昨日、ミズキくんに連絡したんだろう。なんて、わざわざ考えなくてもそれが答えで。
鼻をすすりながら、親子丼を食べ進めた。たまに鼻が詰まって味がしなくなるけど、でもちゃんと美味しい。鶏肉だって、ちゃんと美味さの一部になってる。
「…私、卵産めないよ…」
「そもそも人間は卵産めないから(笑)」
「…くそぅ」
「あと、鶏肉のポテンシャル舐めちゃダメだよ。鶏肉だけでも美味い料理いっぱいあるんだから」
「…唐揚げとか?」
「あー、俺唐揚げ好きだなぁ」
「…今日の夜ご飯、食べて行く?」
「ううん。泊まっていく」
いつか、チキンとエッグのナンチャラなんて名前じゃなくても、この料理を受け入れられる日を迎えたい。あの人との生活や理想の呪縛から解放される日を、ずっと待ち望んでいたけど、そんな日々はもう辞めだ。自分から解かれに行かなきゃ。
ミズキくんと一緒なら、きっとできる。そんな気がする。
「これ、親子丼じゃなくてなんて名前で呼んでくれたっけ?」
「あー、えっとね…、"チキンとエッグの和風仕立て 〜白米に乗せて〜"」
「…なんかちょっと変わってない?」
終
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