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大原は、京の北東の方角にある。比叡山の北西麓にあって、四方を山に囲まれている山里だ。大原の地にひっそりとたたずむ寂光院寂光院は、壇ノ浦の戦いでただ一人助けられ、波乱万丈の人生を生きた建礼門院徳子が、平家の冥福を祈りながら晩年を過ごした尼寺だ。るりは寂光院近くの大きな農家の離れに暮らしていた。
龍次は、はやる心で、るりが暮らす農家を訪ねた。農家の人にことわって、離れで声をかけると、亡霊のように青白く痩せ細ったるりが現れた。
「なんでこんなとこにまで来たんや……」
「るり、どんなに心配したか、わかってるんか!」
るりは寝ていたらしく、寝床が敷かれたままだった。「るりも肺病になったのでは……」と思うと、龍次は目の前がくらくらするように感じた。
「るり、どこか悪いんか? しんどいんと違うか?」
「たぶんうちも肺病やと思う。そやし、龍次さん、京へ帰って。うつったらどうするん!」
「なに言うてるんや! 元気になって京に帰ろ」
「龍次さんの『洗い髪』見たで。美しい清らかな人形やな。あんな清らかな人形を作る龍次さんを、病む人間の巻き添えにしとうなかったんや」
そこまで言うと、るりは激しく咳き込んだ。龍次はるりを囲炉裏端に移した。弱くなっていた火をおこして、そこにあった茶道具で茶を入れてやった。茶を飲んで少し落ちついたるりは、静かに話だした。
「うちが作る人形の世界では、うちは何からも縛られんと、自分の思うままに生きられる。貧しさも病気も悲しみもない。心からたのしゅうに振る舞えるんや」
「るりの『踊り』は、ほんまにええ人形や! 元気になってまた競い合いしよう」
「ほんまやまた……」
るりの大きな目は、穏やかで優しく龍次の目を見つめた。龍次とるりは、どちらからともなく唇を重ねた。魂が人形の世界で触れあい、二人のまわりからすべての音が消え去るのを感じたのだった。
その夜、るりは大量の血を吐いた。龍次は寝食を忘れて看病したが、るりは衰弱する一方だった。
「龍次さん、うちは生活に打ちひしがれた人を身近に感じて生きてきた。それは今もかわらへん……」
「るり、しゃべったら疲れる。しゃべったらあかん」
「うちは世の中の泥をかぶってきたさかい、人形の清らかな静まりを感じるのが、この上ない幸せなんや……」
苦しい息で言い終わると、るりは弱々しく微笑んで、大きな目をゆっくり閉じた。龍次は腕のなかでるりの力が抜けて行くのを感じた。龍次は涙を流しながら、るりを抱きしめたのだった。
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