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3f3df569-792d-4387-9a10-f5354ba40b84 銀杏髷(いちょうまげ)をすっきり結った龍次(りゅうじ)は、大きな前掛けをすると、切れ長の澄んだ目で人形の顔を見つめた。外からは明るい早春の光が差している。人形の顔は、まだ目も鼻も口もない。胡粉(ごふん)と呼ばれる、貝殻を焼いて作った白色の顔料が塗られているだけだ。 ―この真っ白な顔にどんな命を与えられるんやろうかー 人形師の修行をして二十歳になった今も、この瞬間は心が弾むのを感じるのだ。流行り(やまい)で両親を亡くした十歳の頃、加茂人形(かもにんぎょう)の人形師・左衛門(さえもん)の弟子入りをしたが、人形なんて女の子の遊び道具だと思っていた当時を、龍次は感慨深く思い出した。 加茂人形とは柳材を利用し、人形を彫り、スジボリをして、古い装束の(きれ)などを、溝に木目込んで作ったのが始まりだ。文政(ぶんせい)年間、町人文化の爛熟期(らんじゅくき)において、龍次のような職人は貴重に扱われた。 と、その時、階下から言い争う声が聞こえてきた。 「お師匠さんの恩人の娘やと思って、思い上がったらあかんで! 今はお師匠さんに養うてもうてる身やろ!」 「あんたに関係ないやろ!」 「洗濯や飯炊きひとつせんとからに! 男に混じって人形の修行か!」 「おなごが修行して何が悪い!」 るりと女中の声だ。龍次が「相変わらずやな……」と思っていると、大きな足音を立てて、るりが作業場に現れた。髪を娘島田(むすめしまだ)に結い、たすき掛けと前掛けをして、きりりとしている。大きな目で、挑むように人形に向き合い、器用な手つきで、人形の顔を描きはじめた。 ―上手くなったもんやー 五年前、るりとるりの弟・弥助(やすけ)が、左衛門に連れられて、初めてこの家に来た時のことを、龍次は思い出していた。
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