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 亥ノ刻から子ノ刻へと時が移ろう頃になってようやく、寝所へと続く廊を足音が近付いてきた。この屋形の主は夜毎、遊君を呼びつけては声が枯れるまで歌わせ、それに飽きると閨に引き入れて休むも間もなく情欲に溺れるのだと、専らの噂である。齢二十八のその男は、名を狻雄久信(ししおひさのぶ)といい、五稜国(ごりょうのくに)の一国、旧志度国(しどのくに)を統べる領主で、十四の初陣で自ら敵将の首を挙げて以来、乱世を負け知らずで駆け抜けてきた。 「お前は余程の大器と見える、これほど手を拱くなど初めてだぞ」  浅い吐息混じりの低い声は、明らかに衝動を押し殺したような響きを湛えている。獣の如き目をした男だが、堂々たる体躯は夜衣を通して月下によく映え、遠目にもそれと分かる強い眼差しなど、武具を纏った神代の何某の武尊を想起させる美丈夫と言って差し支えなかった。 「久信殿こそ……こんなに手強いお方は初めてにございます」  男の無骨な手がするりと髪を撫でると、女はその手に自らの白い手を重ねて追従に言い、恥じらいながら目線を下げる。 「媚びないのではなかったか」  満足げな表情を浮かべた久信は、唐突に歩みを止めると、やや乱暴に女を引き寄せた。 「続きにはまだ早うございます」  しかし、声色は熱を帯び、身を捩らせる狂おしそうな仕草からも、嫌がる意思は全く伝わって来ない。廊の角に吊り下げられた小さな灯が、女の煙水晶色の瞳に光の粒を撒いて、男を受け入れ誘い込むかのように輝いた。 「わたくしは、媚びているつもりありません。もしそう見えているのでしたら……きっと、久信殿の魔力がわたくしにそうさせているのです」 「魔力と申すか」  久信は意外そうに鼻を鳴らした。 「はい。男に惚れぬわたくしを、このように惑わす力は魔力としか思えませぬ」 「椿姫(つばき)よ」  久信は、腕の中の真紅の花に呼びかける。錦紗の打掛を纏った誇り高い女は、臆することなく、紅に濡れた唇の端を薄っすらと持ち上げ、艶っぽく笑った。 「それは遊びの名ですわ」  ゆっくりと頭を巡らせ、椿姫が見つめる先には、既に開け放たれた寝所の遣戸がある。 「あの帷の向こうでは、真の名を呼んでもらいたいのです」 「その名をわしに授けてくれるか」  椿姫は、もったいぶるように瞬きで頷いて見せ、久信の夜衣の袖を引く。二人の影は刹那に縺れ合ったと見えたが、それは既の所で引き裂かれた。一寸先も見えないほどの闇が辺りをとざしているとはいえ、それゆえに鼠が走る程度の空気の乱れさえも、女にとっては懸念の種となり得るのだろう。男の方はいかにも待ち兼ねるというように、先程よりも呼吸を荒くしている。椿姫は爪先立って、久信の耳にそっと唇を近付けた。まるで暴馬を宥めるような仕草だ。 「ほう」  久信は気を良くしたのか、いくらか朗らかに言った。 「満就(まんじゅ)、とは縁起の良い名じゃ」 「そうでございましょう」  椿姫……こと満就は、男の手をするりと抜け出て庭に降り立つと、裸足のまま袖を振って舞い始める。蝶を思わせる自由さは、これまでの艶かしさを完全に振り切って、何か流れのようなものを明らかに突破した調子があった。 「満就」  呼びかける久信は、ただただ呆気に取られ、女が手元を離れたことに怒りすら湧かないといった顔をしている。 〽︎仏は常にいませども、現ならぬぞあわれなる、人の音せぬ暁に、ほのかに夢に見えたもう。 「満就、まだ歌い足りぬか、ここへ来い」  空気が動いた。久信を照らしていた月明かりが消える。脱ぎ捨てられた真紅の打掛が宙に放たれ、視界いっぱいに広がっていた。 「なっ!」  久信は鬼の形相で空を振り仰いだ。 「このあま、諮ったか!」  久信の背の上にぬっと立ち上がるようにして、それは現れた。ーーどす黒い靄のような、かと思えば脈打つ泡だらけの液体を腹に抱えた、禍々しい巨大な何か。重苦しく鼻の奥を刺す錆びた鉄の臭いは、どんなに血液や人の死に塗れていてもなお、骨の髄から震えを呼び起こされるほどの威力を持っていた。 「比呂緒(ひろお)!」  満就の一声で、青年は梁を蹴って勢いよく跳躍し、宙に舞った。  狻雄久信、彼らの最初の獲物である。
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