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「今日からお世話になります、谷口美蘭と申します。早急に仕事を覚え、ご迷惑をかけぬよう努めて参りますので、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたしますっ」
たったひとりの新入社員。今年はどこも不景気で、美蘭を雇用したこの不動産会社も、昔みたく多くの人間を募集しなかった。
「一宮翔眞です。よろしくね、谷口さん」
パチパチと拍手が贈られて、順に握手を交わす美蘭。その時の翔眞の横顔は、もう恋に落ちたのが明け透けで、古見は良くは思わなかった。
こんな小さな会社で恋愛なんてされたら、たまったもんじゃないわ。
若造から年配にも好かれそうな、きらきらとした新人の女の子。四十歳独身の古見は、美蘭が自分のテリトリーを脅かすのではないかと、そんな不安を初日に抱えた。そしてその不安は、見事的中してしまうのであった。
「はあ……」
美蘭が入社してからというもの、翔眞のつく溜め息が増えた。終始美蘭に送られる熱視線。仕事にはまだ影響は出てはいないが、それは側で見ていて気持ちの良いものではなかった。
「ちょっと一宮くん。あなた最近、心ここにあらずじゃない?」
カツン、とヒールを翔眞の足元で鳴らし、古見は彼のデスクに手のひらを置く。
「谷口さんに恋しても無駄よ。だってあの子、恋人いるから」
その瞬間に、「え」と翔眞は前のめり。
「こ、恋人いるんですか?」
「そうよ。だからやめときなさい。見込みの微塵もない恋は」
そう言い残し、自身のデスクへと戻る古見。彼女が一体何故美蘭の恋人の存在を知っていたかどうかは、この時点ではまだわからない。
「谷口さん、彼氏いたのかあ……」
俺不在の会話の場面で、古見さんはその情報をゲットしたのだろう、とそう思った翔眞は、落胆しながら美蘭を見つめる。
すっごく可愛いもんなあ、彼氏いて当然だよなあ……
一目惚れ。人生初めての恋ではないが、出逢って数日でここまで恋に落とされた経験はない翔眞。
「こんなに好きなのに……」
だから彼は、行き場のないこの気持ちをどうしたらいいのかわからなかった。出社すれば、いる愛しき人。だめだと理解していても、手に入れたいと思ってしまう。
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