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#06 近付く距離
俺は今、谷口さんを抱きしめたいと思ってる。これは浮気になるのかな。
その言葉に、美蘭の胸の奥がざわついた。ドキッとしなかったとは言えない。けれどそれはべつに、恋だの愛だのではなくて、このシチュエーションに対してだけの反応だと思えた。
「それは浮気にはならないと思いますけど、そんなことしなくていいですよ。一宮さんに話聞いてもらっただけで、じゅうぶんすっきりしました」
接客中はもちろんのこと、上司や同僚にも普段は流暢に喋れるけれど、こういった場面には弱く、一気に口下手になってしまうタイプなのかもしれない。泣きべそをかく後輩へ、どう慰めていいかわからずに、ただ抱きしめて宥めるという方法しか思いつかなかったのかもしれない。
翔眞の「抱きしめたい」をそう解釈した美蘭は最後の涙一粒を拭い、笑顔を見せた。「長々と話しちゃってすみません」と、頭を下げ、この話にピリオドを打とうとしたその時、ふわっと包まれた上半身。
「谷ぐ──美蘭っ」
「えっ」
「美蘭って、呼んでいい?」
翔眞の胸元で問われた、そんなこと。今の今までとは全く異なる方面から投げかけられたクエスチョンに美蘭は驚き、暫し黙ったままでいると。
「谷口さんじゃ、なんか遠いよ……」
と、耳の底へ落ちてきた懇願するような声に、彼女は思わず頷いた。
「も、もちろんいいですけど……」
でもなんで?は、今は聞かない、それはなんとなく。そのまま続く、会話。
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