#02 歌詞のないメロディー

4/4
前へ
/138ページ
次へ
「康隆ってば、相変わらずクラシックが好きだよねえ」  康隆が好むミュージックは、美蘭と彼が付き合い始めてからずっと変わらない。彼の寝室からは二十四時間、いつ何時(なんどき)でも、歌声のないメロディーが流れている。  引っ越しを終えてから一ヶ月が経ったとある日のこと。康隆の自宅でふたり、ワインで乾杯していると、開けっ放しの寝室から聞こえてきたそれに、話は盛り上がった。 「おう、好き。だって歌詞のない音楽ってさ、自分の気分次第で聞こえ方変わるじゃん」 「聞こえ方?」 「うーん、そうだな。例えば躍動感たっぷりある曲も、物憂げな時はどこか寂しく感じるし、とことん悲しいメロディーだって、試験に手応えあった日なんかに聞くと『よく頑張ったね』なんて、労われているような気になる」 「ふうん、なるほど」  康隆がそう言うから、美蘭もその気持ちを共有したくなって、彼女は今流れている曲に、耳を傾けた。 「これ、なんていう曲だっけ?」 「『別れの曲』」 「ああ、ショパンの。どうして『別れの曲』っていう題名なの?」 「この曲は、故郷ポーランドを離れたショパンが、パリへ拠点を移した頃に作られた曲なんだ。だから母国を想う侘しさを込めたんじゃないかな。離れがたいって、恋しいって、本当は戻りたかったのかもしれない」 「だったら戻ればいいのに」 「当時、ポーランドはロシアに対しての独立運動真っ只中だったんだよ。音楽家として前に進むためには、パリにいた方が都合がよかったんだと思う」  そっかあ、と呟いた美蘭は、切ないメロディーにショパンの気持ちを重ねてみた。すると本当に、彼が祖国を想うさまが浮かんできて、なんだか不思議な気分になった。 「さっきまでは、ただのBGMでしかなかったのに」 「え?」 「康隆の言う通り、歌詞のないメロディーって自分の感情ひとつで聞こえ方が変わってくるね」  耳に手を運び、ふふっと微笑む美蘭のことを、康隆は心底愛おしく思う。ワイングラスをテーブルへ置いた彼は、その手で頬杖をつく。 「まじで美蘭は、これからもずっと俺の隣決定ね」 「え」 「一生俺の恋人でいるって約束して。じゃなきゃ俺、なにするかわかんない」  じいっと愛おしそうに見つめられ、美蘭の鼓動が速まっていく。けれど彼女は一生の恋人よりも、もっとほしい座があった。 「恋人からは、昇格できないの?」 「昇格?」 「ほら、わたしたちもあと一年で大学卒業だしさ。お互い働き出して、落ち着いたら……」  結婚。  そのワードは美蘭だけでなく、もちろん彼女を愛する康隆の頭にも浮かんできた。 「期待して待ってて」  そう言って、朗らかな笑みを見せた康隆からは、この時想像なんてつかなかった。 「リ、カ……?」  社会人になったばかりの五月に、彼が浮気をするなんて。
/138ページ

最初のコメントを投稿しよう!

151人が本棚に入れています
本棚に追加