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「康隆ってば、相変わらずクラシックが好きだよねえ」
康隆が好むミュージックは、美蘭と彼が付き合い始めてからずっと変わらない。彼の寝室からは二十四時間、いつ何時でも、歌声のないメロディーが流れている。
引っ越しを終えてから一ヶ月が経ったとある日のこと。康隆の自宅でふたり、ワインで乾杯していると、開けっ放しの寝室から聞こえてきたそれに、話は盛り上がった。
「おう、好き。だって歌詞のない音楽ってさ、自分の気分次第で聞こえ方変わるじゃん」
「聞こえ方?」
「うーん、そうだな。例えば躍動感たっぷりある曲も、物憂げな時はどこか寂しく感じるし、とことん悲しいメロディーだって、試験に手応えあった日なんかに聞くと『よく頑張ったね』なんて、労われているような気になる」
「ふうん、なるほど」
康隆がそう言うから、美蘭もその気持ちを共有したくなって、彼女は今流れている曲に、耳を傾けた。
「これ、なんていう曲だっけ?」
「『別れの曲』」
「ああ、ショパンの。どうして『別れの曲』っていう題名なの?」
「この曲は、故郷ポーランドを離れたショパンが、パリへ拠点を移した頃に作られた曲なんだ。だから母国を想う侘しさを込めたんじゃないかな。離れがたいって、恋しいって、本当は戻りたかったのかもしれない」
「だったら戻ればいいのに」
「当時、ポーランドはロシアに対しての独立運動真っ只中だったんだよ。音楽家として前に進むためには、パリにいた方が都合がよかったんだと思う」
そっかあ、と呟いた美蘭は、切ないメロディーにショパンの気持ちを重ねてみた。すると本当に、彼が祖国を想うさまが浮かんできて、なんだか不思議な気分になった。
「さっきまでは、ただのBGMでしかなかったのに」
「え?」
「康隆の言う通り、歌詞のないメロディーって自分の感情ひとつで聞こえ方が変わってくるね」
耳に手を運び、ふふっと微笑む美蘭のことを、康隆は心底愛おしく思う。ワイングラスをテーブルへ置いた彼は、その手で頬杖をつく。
「まじで美蘭は、これからもずっと俺の隣決定ね」
「え」
「一生俺の恋人でいるって約束して。じゃなきゃ俺、なにするかわかんない」
じいっと愛おしそうに見つめられ、美蘭の鼓動が速まっていく。けれど彼女は一生の恋人よりも、もっとほしい座があった。
「恋人からは、昇格できないの?」
「昇格?」
「ほら、わたしたちもあと一年で大学卒業だしさ。お互い働き出して、落ち着いたら……」
結婚。
そのワードは美蘭だけでなく、もちろん彼女を愛する康隆の頭にも浮かんできた。
「期待して待ってて」
そう言って、朗らかな笑みを見せた康隆からは、この時想像なんてつかなかった。
「リ、カ……?」
社会人になったばかりの五月に、彼が浮気をするなんて。
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