幻日 (げんじつ)

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 その日はとても寒い始まりだった。  無音の朝、目覚めて日の光を取り込もうと、カーテンを開ける。  眩しいほどの陽光が差している中、氷の粒が空から舞い降りてくるのが幻想的で、少しの間見入っていた。  その氷の粒たちは、太陽の光を浴びて七色に(きら)めいている。  この地方では珍しく細氷(さいひょう)が見られた。  そういえば昨夜の天気予報では、夜中に冷え込んで雪が降ると言っていたっけ。  一面の雪景色にもう少し眺めていたい気もしたが、寒さに身を震わせもう一度布団に潜り込む。  どのくらい経ったのだろうか。  いくら休日といえども、そういつまでも布団にくるまっているわけにもいかない。  だけれども、まだ暖房をつけていない布団の外は、きっと凍えるほど寒いに違いない。  もじもじとしている間にも、時計の針は進んでゆく。  ええい、と覚悟を決め掛け布団を脱ぎ捨て、冷えた世界へと飛び出した。  案の定、周りの空気は一瞬で身体の(だん)を奪う。  急いで暖房器具のスイッチを入れて暖を取る。  エアコンから吹きだした風が暖かく心地良い。ホッと窓に目をやった。  ダイヤモンドダストが風に舞い、キラキラと輝いている。  好奇心からその(きら)めきを身体で感じたくて、外に出てみることにした。  急いで身支度を整え、玄関のドアを開く。  温まった室内に寒々とした風が吹き込み、思わず身をすくめる。  しかし目の前で踊る氷の粒たちを見て、寒さは一瞬にして感じなくなった。  美しいそのありさまは、まるで夢の世界かおとぎの国のようである。  ダイヤモンドダストに照らされて、太陽の周りには滅多に見られない幻日虹(げんじつにじ)が見られた。  幻日虹は幸せの前ぶれとの言い伝えがあるが、それを信じたくなるような光景だ。   少しその辺を歩いてみようかと、戸締まりをし、一歩を踏み出した。  まだ誰も跡をつけていない真白き絨毯は、心を清らかにしてくれるようだ。  ザクザクと音を立ててゆっくりと歩いてみた。  森の方からは木々を揺らす冷たい風が吹いてくる。  遠くにそびえる山が(まと)った雪の服は、まだ当分脱げそうにない。  ザクザクザクと踏みしめて、枯れ木で賑わう森にさしかかる。  枯れ木に咲いた雪の花が風に舞い、細氷(さいひょう)となる。  太陽を浴びて一層美しく舞う。  奥の方には針葉樹がひしめいていて、あそこまで行ってみようと歩みを進める。  ザクザクザクザクとしばらく進み、ようやく針葉樹の世界にたどり着いた。  ホッとひと息ついたとき、目の前に現れた見かけぬ姿に釘付けになった。  白い肌に銀の髪。青い瞳に美しい顔立ち。  人の姿をした線は細く、絵画の世界から飛び出して来たように現実離れしている。  吸い込まれそうなほどの深い(あお)の瞳と少しの間見つめ合ったが、微笑みとともに手招きをされ一歩前に出た。  優しく差し出された手に、そっと自分の手をあずける。  ひんやりとしたその手は柔らかく、どことなく懐かしさを連れてきた。  それがどうしてなのかは解らないし、そんなことはどうでもいいと思えた。  ダイヤモンドダストが一層強く輝いて、より幻想的な世界を映し出す。  その光景をぼんやり眺めていると、この現象は“恋をした雪の精のため息”と言われるらしいとその人は教えてくれた。  するとひときわ強く風が吹き、思わず目をつぶり片手で風をよける。  風がおさまった頃、ようやく手を下ろし目を開けると風は止み、キラキラと氷の粒が舞い降りているだけ。  あの人は、あの美しい人はどこかと辺りを見渡したが、どこにも見つからない。  足元には足跡も無く、まるで氷の粒と一緒にどこかへ飛んで行ったかのよう。  ついさっきまでそこにいたその人は、現実か幻か。  それとも幻日(げんじつ)が見せた雪の精か。  茫然(ぼうぜん)と立ち尽くしていると、今度は柔らかな風が吹き、陽光に照らされた細氷(さいひょう)が目の前を通り過ぎて行った。  その時、雪の精のはにかんだ姿が脳裏に浮かんだ。 『恋をした雪の精のため息』  そうなのかもしれないと思った。  もう一度会いたいと思った。  でも今日はもう無理だろう。  ザクザクザクザク、ザクザクザクと来た道を引き返す。  自分の足跡をたどって家の前までようやく着いた。 ☆ ☆ ☆  1日を終え、やっと眠りにつく。  明日もまたダイヤモンドダストは見られるだろうか。  恋をした雪の精のため息に会えるだろうか。  あの美しい人に……。  ゆっくりと眠りの世界に足を踏み入れると、懐かしい光景が映し出された。  子供の頃の想い出。  もうずっと記憶の彼方に追いやられていた幻。  今日のように光を帯びた氷の粒が舞い降りる中、ひとり森まで幻想の世界を旅していたとき。  出逢った姿はまるで雪の精。  白い肌に銀の髪。青い瞳に美しい顔立ち。  線は細く、絵画の世界から飛び出して来たように現実離れしている。  自分と違うからと怖がらなくていいと出された手に、恐る恐る自分の手をあずけた。  怖かったのではなく、あまりの美しさにみとれていたのだ。  ひんやりとしたその手は、柔らかく優しかった。  恋をしたのは、自分の方かもしれない。
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