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彼の部屋は、クローゼットの扉がきちんと閉められ、綺麗に片付いていた。
お茶をどうぞ、と言って彼はテーブルに湯呑みを二つ置いた。青磁色の湯呑みに、茶色のお茶。湯気が立ちのぼり、淹れたてなのが判る。寛ぐのは悪い気がして、椅子には鞄を置いた。
彼はこちらへ歩み寄るとじっと私の顔を覗き込んだ。
「あ、睫毛がついてる」
こちらへ人差し指をゆっくりと近づけた。私は反対に顔を遠ざけた。
「ちょっと、何」
さりげなく目を瞑らせようとする彼はやっぱり手慣れている。何をしようと企んでいるのかは、さすがに私でも判った。恋愛ドラマや小説でも恋愛上級者の常套手段としてよく用いられていた。
「騙されないからね」
腰に手を当てて言い放つ。弱みを見せてはいけない。
私と目を合わせた彼は、ふっと笑みをこぼした。
「用心深いなあ。でも俺さ、君ほど好きになれた彼女はいないんだよね」
「へえ」
ある意味期待を裏切らない発言だ。そんな術が飛んでくることは想定済みなのに。
「それも、騙されないよ」
私は挑発するように首を傾けた。心の中ではしっかり喜びの舞いを踊っていたが。
彼は笑みを引っ込めると「わかった」と観念したように頷いた。
「正直に言うよ。……き、キス、しよ」
私はその場に固まった。キス──妖艶で、蜜のように甘くて、コーヒーのようにほろ苦くて、迂闊には口にできない言葉。それだけが頭の中をふわふわと漂った。私はごくりと唾を飲んだ。
「い、いいよ」
ぎゅっと目を瞑る。肩に手を置かれたのが判り、心臓が跳ね上がった。
君ほど好きになれた彼女はいない。そんなことを、歴代彼女にも言ってきたのだろう。現在の彼女という立場に甘えてはいけない、騙されてはいけないと常に警戒していたかったのに、自分を騙すことが難しくなってきていた。私はやはり、彼のことが──。
いつまで待っても唇に何かが重なる気配がない。不審に思い目を開けると、口角を上げる彼と目が合った。
「あれ、するんじゃなかったの?」
私は激しく瞬きをした。その気になった顔を至近距離で見られていたと思うと、頬が熱くなった。
笑みを隠しきれていない彼は、ぶは、と笑いを噴出させると口元を手で覆った。
「するする、するよ。でもすぐにするとは言ってない。それに今のキス待ち顔、可愛かったからつい見ちゃった」
騙された。口をへの字に曲げた私の横で彼は声を上げて笑っている。やはりこんな調子だ。熱量の差はどうしたって埋められないのだろうか。箪笥にぶつけた小指は、他の指たちの末弟として痛みを負っただけで終わってしまうのだろうか。
結局は彼が本気を出す相手に、私は選ばれなかったということなのだろう。
視線を外して溜め息をつく。今まで呼吸さえ忘れていたことが、馬鹿らしく思えてきた。
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