春あけぼのの騙しあい

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 突然、私は顎を掴まれた。 「ん」  唇に柔らかいものが触れ、反射的に目を開けた。顎も唇もすぐに解放され、口元を手で隠す彼が視界に入った。彼の瞳がきょろきょろとせわしなく動く。頬もこめかみも、耳まで真っ赤に染まっていた。  彼のこの反応は、すなわち。  口を開こうとすると、相手のほうが先に「あ、あのさ」と切り出した。 「お、俺、ちょ、ちょ、ちょっと熱が、あ、あるみたいで。えっと、その、うん、なんか、風邪、引いたっぽくて」  頭や頬を掻いたり腕を抱えたりと、動作が賑やかになる。  ただ瞬きするだけの私に、彼は湯呑みを示した。 「ほ、ほら、お茶、あるよ。どうぞどうぞ」 「あ、そ、そっか。じゃ、飲むね」  私までぎこちなくなる。熱があると言うわりに私への気遣いも忘れない。そんな彼の様子が少しだけ気になる。 「そんなときに押しかけちゃって、ごめんね」  私は謝罪の言葉を口にした。  湯呑みのお茶をひと口啜ると、華やかな香りが鼻に抜けた。見た目に騙されていたが、これは紅茶だ。トリックアートを見たときのような驚きに、今は少し救われた。 「こ、こっちこそ、ごめん、なんか、騙してたみたいで」  彼は顔を赤くしたままひたすら謝罪する。 「いいよ、騙されたなんて思ってないし。それより、熱っぽいならちゃんと休まなきゃ。何か欲しいものとかある?」  私が問うと、相手はぶんぶんと首を横に振った。 「大丈夫。むしろ風邪うつしたくないから、俺は一人になったほうがいいと思う」 「……そうだね、わかった」  帰り支度を始めると、彼は小さく何かを呟いた。 「本当は風邪じゃないけど……これで、騙せた、かな」
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