44人が本棚に入れています
本棚に追加
恋人は去年入ってきた派遣の女だ。派手な服装で入社してきて頭のわるそうな女だと思っていたが意外と仕事ができた。空気もよめる。人のあしらい方がうまく、あっというまにオヤジ達にかわいがられるようになり独身の男達にはデートに誘われるようになった。初めは興味もなかったが皆がさわいでいると、なんとなく女がよいもののような気がしてくる。
自販機の前にいれば缶コーヒーを買ってやり、皆で飲みに行く機会があれば隣に座る。残業のときは帰りの時間をあわせて二人きりで帰る。女とは話がはずんだ。気があう。でもデートの誘いは断られつづけた。なかなかおちないなダメかな、と思案していたが社内打上げの居酒屋でトイレに行ったあと、男性トイレの前で女が俺を待っていた。濡れた目で「あたしに手をだすんでしたらそれなりの覚悟をしてください」と言いながら抱きついてきた。多幸感に酔いしれ俺を選んでくれたことに感謝した。
ふたりでそのまま店をぬけでた。
妻は完璧だ。
飯もうまい。家はいつもかたづいている。俺の親や親類、友人達との関係もいい。仕事も在宅でそれなりに稼いでいるようだ。
ただいつも忙しそうにピリピリし、俺が手伝いもせず遊び呆けているのに文句も言わず、食事も手早く何品もだし、いつ寝ているのかわからない妻を気持ちがわるいと思った。もう少しゆとりがあってもよいのではないか。小さな失敗をして落ちこんでいる姿をみせてもよいのではないか。
恋人は仕事もできるし要領もいいが俺の前ではベタベタと甘えてくる。ぬけているところもあって可愛い。なにより新鮮で若い。くらべてしまうとどうしても妻とは見劣りがしてしまう。
ところで妻はかたまってしまって動かない。
一緒の寝室で寝るわけにいかないので毛布をもってリビングのソファーで横になった。
次の朝、妻は寝室からでてこず、そのまま放って会社へ行こうとしたが寝室のドアがざわめいて気になってドアを少し開けてのぞいたら妻は昨夜のまま真っ赤な目でベッドの縁を見ていた。近くまで寄って声をかけたが反応しない。人差し指で肩を突いたらこちらに向いた。「遅刻するのでもう家をでる」といったのだが妻はぽかんとしている。同じことをもう一度いったが反応しない。もしやと思って「恋人をいかに愛しているか妻に不幸になってほしいわけではなく」といったようなことを喋ったがやはり妻は反応しない。
妻の耳が聞こえなくなった。
会社へ半休の連絡を入れ、近所の耳鼻科を調べた。
妻は昨夜のまま普段着だったのでそのままサンダルを履かせ玄関をでた。
タクシーをひろい耳鼻科へ向かう。妻は話しかけても返事はしないが手を引っ張ると大人しく動く。
「これといってわるいところはありませんが大学病院で精密検査してもらいますか?」
妻の耳になにかの器具を突っ込んだりした医者は、ストレスが原因で耳がきこえなくなくなることもあります、とつけくわえた。
病院へ行けば薬をだしてくれ、二、三日すればよくなります、で終わりかと思っていた。困惑していたら突然妻が立ち上がって歩きだした。妻はスリッパを履いていなかったので時々すべりそうになりながら診査室をでていく。そういえば妻は昨夜からトイレに行っていないのではないか。トイレだと思う、と医者に言った。
妻が完全に部屋をでていってから医者が「耳鼻咽喉科じゃなくて心療内科とかのほうがいいのでは」と眉をひそめた。「奥様、ショック状態ですがなにかありました?」
じつは恋人が妊娠して別れを切りだして昨日の晩から妻がおそらく一睡もしていないようだ、としどろもどろに呻いた。医者も、うーんと呻いた。適当な返事を返して待合室にもどる。もどって椅子に腰かけスマホで午後からのスケジュールを確認していたら、目の前に座っていた女が隣に座っていた老女に「さっきトイレにいったら内側からドアがどんどんって叩かれていて、怖くなっちゃって、トイレ入れなくなっちゃって、受付の人にでもいっといたほうがいいのかしら」と話しかけているのをきいて、あわててトイレへ向う。
幸いなことにトイレは男女共有で、迷わず『トイレ』標識のかかっているドアをあけた。なかに手洗い場があり、その向こうにトイレのドアが閉まっている。ドアから音はしてこない。そのドアを数回ノックしてみるが中からは何も返ってこない。午後からの会議やら得意先回りのことを考えて受付に助けをもとめた
すでにドアをノックしてなんの返事も返ってこない、といったのに、受付の女は再度ドアをノックして「おかしいですねえ」と首をかしげた。それから椅子をもってきてその上に乗り、ドアの向こう側を覗きこんで悲鳴をあげる。女は椅子から転げ落ち、かなり腰を打ちつけた様子だったがそんなことおかまいなしに「きゃあきゃあきゃあ」と四つん這いになって逃げようとしている。
女が降りた椅子に足をかけ立ち上がり俺も向こう側を覗く。
向こう側では妻がフックにスパッツをかけ、首を吊っている。なんとなく妻の体全体がデッサンが狂ったようにみえる。
人々が怯えた顔して覗いてくる。
受付の女はすでに立ち直り、しっかり二本足で立っていて医者の耳に何かを喋っている。医者は「すぐに救急車と警察」といいながら椅子から俺をどかしドアの向こうをみた。そして震えながら「トイレ、弁償してもらいますよ。病院だってしばらく営業できない。大変な金額になります」と俺を睨んだ。
なにかを言おうとしたがなにも言えない。
スマホが鳴ったのででてみたら恋人だった。
「今日、午前休とったんだね。どうしたの、離婚のこと話したら奥さん暴れた?」
「…いや」
「そっかあ、暴れなかったかあ。それで奥さん、別れてくれるって?」
昨日まではあんなに幸せだったのだ。俺は。
「とにかく早く奥さん出ていかせてよ。ベッドは買い替えようね。シーツもタオルも全部。でも家電は仕方ないよね。子供できたんだもん、これからお金いるし。食器、かわいいの買ったよ。お揃いのマグカップ。茶碗はいいのがあったけどちょっと高くて、でも買っちゃおうかな、どう思う?」
俺は。
「奥さん、可哀想だからあんまり酷いことは言わないであげてね」
俺は。
最初のコメントを投稿しよう!