元鞘には戻れない男

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 カップルがさ、彼女の浮気で別れたんだけど雨が降ってる日に彼氏のアパートの前に別れたはずの彼女がずっと立ってたんだって。傘ささないで。ずぶ濡れになって彼氏の部屋の窓ずーっと見てて、彼氏、根負けしちゃって。部屋に入れたらもうだめだよね。シャワー浴びなよ、とか、タオルとか、彼氏がそんなこと言ってるあいだに彼女、彼氏おし倒して元サヤだって。 「これ、うちの妹の話。しばらくしたら妹のやつ、また浮気してけっきょくその男とは別れたけど」  さっきからどうでもいいことを私は夫に話しかけている。夫は話のあいまに、へえ、とか、そりゃすごいね、とか間の手をうまい具合にいれる。 「ね、きいてる?」 「きいてるよ。妹が女子力強めですごい」  夫はスマホから目を離さず返事をする。莉子とラインをしているのだろう。知りあったときから夫は莉子と仲がよかった。  莉子は夫の女友達だ。  結婚前のデート中、夫のスマホが鳴った。電話にでた夫は顔色をかえて「用事ができた。あとで払うからここ支払っといてくれる。ごめん」と私をおいてあわてて帰って行った。  家族が事故にでもあったのかもしれない。心配していたら、莉子が男にふられた、という理由でフランス料理のディナーの途中で一人にされたとわかった。 「だって泣きながら電話してきたんだよ、あの莉子が。泣くなんてよほどのことだよ」  莉子は美人ではない。美人ではないが男が切れない。でも長続きしない。わがままな女なのだ。真夜中、終電が過ぎていても「会いたい」と呼びだし気がすむと「帰って」と平気で言うらしい。  男と別れると夫が呼ばれる。夫はベタベタと莉子を甘やかし、莉子は私たちのデートについてくるか、私とのデートを夫がドタキャンするか。そのうち莉子は新しい男をみつけ夫から離れて行く。もちろん莉子は男と長くは続かない。夫が呼ばれる。  ひどい関係だと思ったが私と夫が結婚したらその関係も変わると思っていた。あまかった。全然あまかった。  莉子が男と別れたときの夫は、一日が莉子でまわる。  私がおいしいケーキを買ってくる。「これ莉子にも食べさせたい」と店の名をきかれる。  旅行へ行けば風景を撮って莉子へ送る。  新しいブラウスを着てたら「莉子のほうが似合いそうだなあ」と物欲しそうな顔をしたので、ブラウスは妹にあげた。妹は喜んだけどあたりまえだ。あのブラウスは高かったのだ。 「莉子さんと結婚すればよかったのに。元カノだったの?」 「莉子はそんなんじゃないんだ、妹っていうか」 「私、妻なんだからもう少し大事にしてほしいな。私、いつも莉子さんの次だよね」 「莉子の次って、そんな、好意は順番じゃないだろ。種類が違うんだ。僕はその都度正しいと思うことをやっているよ」  私の夫は口がたつ…のか。 「僕が守ってやらなきゃ誰が莉子を守ってやれる? 莉子がちゃんとした男をつかまえたら僕は退くよ。それまでは面倒をみてやらなくちゃ。莉子は繊細で弱いんだ」  こういうことを言ってくる男になんと返せばよいのか。夫が面倒みなくなったって莉子は代わりの男を即座にみつけてくると思う。でも言ってもわからないだろう。そんなこと言ったら夫のなかで私は意地悪ババアのポジションになるのだろう。でも莉子のことがなければ良い夫、と考えようとしてその考えがすでにもう終わってると気がついた。   話しあいでどうにかなることではない。  私は結婚に失敗したんだ。  妹に愚痴ると「離婚しなよ」と言われた。それができればどんなに楽か。私は夫にまだ情が残っている。   「莉子とお姉ちゃんの旦那、高校のときつきあってたらしいよ」  でもある日、妹が言った。 「莉子、ビッチだったって。先生まで喰ってたらしい。お姉ちゃんの旦那とはずっとくっついたり離れたり繰り返してたって。今でもそうなんじゃない?」  結婚すればよかったのに。そしたら私、こんな目にあわなかった。 「莉子はお姉ちゃんの旦那の顔がタイプじゃないんだって。お姉ちゃんの旦那のほうは家族が反対したって。そりゃそうだよね、誰が父親かわかんない子産みそう。あいつらのこと知ってる人ずっと探してたんだ。莉子のインスタいつもチェックしててやっと連絡とれる人みつかったんだよ。ねえ、お姉ちゃん。離婚するとしてもあいつらつぶしてからにしなよ。あたしもいい加減な性格してるけど妻帯者と真面目に手はださないわ」  それから私は普段どうりを気にして過ごす。莉子のことがなければそれなりの夫だ。日常がまわり私の気持ちは場面場面でゆれた。夫のことが嫌いになったり好きになったりした気持ちは絶対、外へださなかった。  夕食の最中だった。  スマホの通話を終えると、夫は箸をおき立ち上がった。 「莉子がそこの公園で待ってるからちょっと行ってくる」  ここしばらく莉子からの連絡がなく平和だった。けど莉子は男と別れたのだ。莉子がまた私たちの生活に侵入してくる。 「行かないで」 「すぐ帰ってくるよ。莉子、泣いてたんだ。泣き止んだら帰ってくるから」  夫は私と目も合わせない。コートを手にとりあわててでて行った。  私も立ち上がる。  玄関をでると外はすでに夜が降りてきていてひんやり冷たい。  公園は住宅地のなかにあり夜は人がいない。  ベンチに座っている二人が街灯に照らされている。ベンチの裏側は低木が茂っていて、私の全身をかくしてくれた。 「離婚して。あたしと結婚しよ」 「いつもそう言うけど、男、切らさないよね。僕が離婚したとしても莉子に次の男ができてたら僕はどうしたらいいの」  「あたしのことだもん、すぐに別れるって。待っててよ」 「そんなあやふやな約束は嫌だなあ」 「なんであんな女と結婚したかな」 「彼女、僕のこと好きでいてくれてるし、たまたま近くにいたというか、まあ、嫌になったら別れればいいと思ったんだ。ほら僕、長男で親も結婚しろってうるさかったし」 「あんな地味女、よく選んだね。連れて歩くにも勇気がいるわ。他にいなかったの」 「莉子じゃなかったら誰だって同じだよ。なんでもいいんだ」 「あたしが一番?」 「莉子が一番だよ」  「あの女とは別れるよね」 「うん、そのうち」 「今日これから家に帰ったら言うのよ。別れるって」 「いやあ今日これからっていうのはちょっと。もっと時間をかけてから」  莉子が夫に覆いかぶさった。 「ねえ、外だけどすごいことしてあげる。だからあの女に言って、ブスのくせにって。おまえの顔みると吐き気がするって」 「だめだって。ここうちの近所で誰が通るかわかんない…」  夫の呻き声と、水分の、ぺちゃぺちゃという音がしてきた。  震える指先でスマホの録音機能を切った。  その場から静かに移動した。  情の欠片が一瞬で消えた。  公園を離れ、そこから走って帰った。家に着くと思いつくかぎりの身の回りのものをキャリーケースに詰め、外にでて、タクシーを拾って実家へ帰った。 「だから最初に結婚、反対したじゃん。結婚したらあんなのがセットでついてくるんだよ。姑ならまだしも相談女なんか我慢できないよ」  今なら妹の言うことがよくわかる。  両親は「そのぐらいで離婚?」と眉をひそめたが「本人がそれほど嫌がっているなら」という態度でいてくれた。スマホに入っている音源をきかせてもよいが、年老いた人たちにあんなグロテスクな会話をきかせたくなかった。  夫からは凄まじい量の連絡があった。なぜ夫が私に連絡してくるのかわからなかった。私と離婚すれば莉子と結婚できるのに。 「あの夜、後をつけた。全部きいた。離婚したい」とメールを打ってからは連絡が止まった。  そして今、私は実家の2階から妹と外を眺めている。外は雨が降っている。うちの門のあたりに傘もささず、夫が立ってこちらを見上げている。夫は私を認識したようでホッとしたように手をふった。 「お姉ちゃん、よく、あんな男と見つめあえるね。目、腐るよ」 「これから冷えて、この雨、雪かみぞれになるんだって。だったらさ、もう少しあそこで立っててほしいな。期待もたせたら凍えるまで待ってると思わない?」  妹は「やるねえ」と笑った。 「そうこなっくっちゃ、あいつ肺炎になるといいな」  夫は妹のエピソードを思いだして雨のなかを立っているのだろう。そういうところも気持ちがわるい。私はすっかり、夫のどこがよくて結婚したのか忘れてしまった。
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