海の天使

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 遠くで野球部の声が聞こえる美術室で、海月はひとりスケッチブックに鉛筆を走らせていた。シャッシャと紙と鉛筆が勢いよくこすれる音が響く。  真っ白だった紙の上に映し出されていくのは、海の上に浮かぶ片翼の天使。その翼を描き終えたところで、海月はぴたりと手を止める。そしてぐしゃぐしゃと絵を黒く塗り潰した。 「ダメ……こんなんじゃない」  海月は鉛筆を置くと、黒くなった紙を手に取ってびりびりと破いていく。  廊下を甲高い声で騒ぎながら走り抜けていく生徒の足音が、耳に障る。野球ボールがバットに当たる音も嫌いだ。時々聞こえてくる吹奏楽の不快な練習も、やめさせたい。  とにかく、静かにしてほしい。  イヤホンや耳栓で音を塞げれば良いのだが、その類の持ち込みが禁止されているので、海月は高校選びに失敗したと思っている。遠くても規則が緩いところにするべきだった。  もっと静かなところで描きたい。  あの時は、周りから全ての音が消えたかのように静寂が空間を支配していた。波も風も息をひそめて、海の上に降り立つ彼女を見つめていた。  あの日のような静けさの中でなら、彼女のことを描けるかもしれない。  海月は新しいページを開き、鉛筆を手に取った。そして窓の向こうへ視線を向ける。  失敗したと思っているこの高校だが、ひとつだけ良いところがある。  あの海がすぐ近くにあるのだ。  美術室の窓から見える校庭の、その向こう。太陽の光を反射し、キラキラと輝いている青い海がある。  あの時のように息をひそめ、遠い海を見つめる。  しばらくしてから、海月は再び鉛筆を紙に滑らした。 「まったく……あたしが美術室覗かなかったら、あんた今頃門限破って親に怒鳴り散らかされてたよ?」  夕焼けに染まる帰り道の中で、幼馴染の瀬奈が呆れた声で振り返る。彼女の後ろをとぼとぼ歩いていた海月は、無言のままこくりと頷いた。 「もう……元気ないなぁ。今回も天使さま上手く描けなかったの?」 「……うん」  瀬奈は小さくため息を吐いて、海月の手を掴み引っ張った。彼女に引かれるまま海月は歩調を早め、そしてぼんやりと海の天使のことを考える。  結局今日もあの日の天使を絵に表現することは出来なかった。毎日毎日、同じような絵を描いては同じように黒く塗り潰して破る。  絵を描く技術は上がっても、記憶の中にいる天使さまの姿は段々おぼろげになっていく。まだ幼稚園の頃に描いた絵の方が、つたないながらも鮮明に描けているかもしれない。 「何でこんなに上手くいかないんだろ……」 「さあね。描き続けるしかないんじゃないの」  瀬奈は海月の呟きを拾って、素っ気なくも返してくれた。海に浮かぶ天使だなんて嘘みたいな話を、昔から一度も疑うことなく信じてくれる瀬奈は、海月の唯一の理解者であり親友だ。 「瀬奈……」 「はいはい瀬奈さんですよー。早く帰らないと、電車に乗り遅れますー」  少しずつ日が傾いてきて、空がオレンジから紫に変わっていく。瀬奈の後ろ姿も、段々暗くなっていく。  本当は、あの日のような静けさに満ちる夜の海で、天使を探したい。記憶の中を探るのではなく、この目で見て、その場でスケッチをしたい。  けれど高校生になったとはいえ、両親はひとり娘の海月を夜に出かけさせるのは不安がったし、父の趣味であった夜釣りは釣り竿が壊れたことを契機にやらなくなってしまった。 「お父さんはね……天使に見覚えがないんだって。私の夢じゃないかって笑われてから、もう聞いたことない……」 「ふ―ん、じゃあその大人には見えなかったんだね」  瀬奈が軽い調子で言った。  海月は頷こうとして、ふと立ち止まる。  何かが引っかかったような気がして、海月は瀬奈の背中を見つめた。 「どした?」 「……ねえ、もっかい言って」 「ん? ……だから、大人には見えないんじゃないかって」  大人。  そうか、大人だ。  海月は背筋から血が引くような心地を覚えた。海月は現在、十七歳だ。そして法的な成人は十八歳である。  もし瀬奈の言う通り大人は見ることが出来ないのだとしたら、海月はあの天使さまを見る機会を一生失ってしまう。  それは駄目だ。せめて、もう一目だけでも。 「私、天使を見つける。ねえ、手伝って」 「え? あ、あー……まあいいけど。親の許可とりなよ? あんたの親、過保護なんだし」 「うん。瀬奈の家に泊まってることにする」 「……」  瀬奈は何か言いたそうな顔をしたが、唾と一緒に飲み込んだようだった。まあいいよ、という返答をもらい、海月はお礼の意味も込めてこくりと頷く。そしてぎゅっと瀬奈の手を握り返した。  今夜こそ、天使の姿をスケッチするのだ。 「つってもさー、どうすんの?」 「何が?」  海月は砂浜に散らばる石を拾いながら、寝袋を広げている瀬奈に顔を向けた。 「天使。どうやって見つけるの?」  もう日がどっぷりと沈んだ空には、星が点々と瞬いている。周りにこれといった光源がないからか、いつもより多く、そして綺麗な星空に見える。  月明かりに照らされた瀬奈は、どこか不機嫌そうだった。  海月は周りが暗いからそう見えているだけだと思い、何となしに答えた。 「見張るの」 「見張るぅ?」 「そ。だからこうやってテント作ろうとしてんでしょ」 「いや……テントって言うなら、これあまりにもふきっさらしすぎだけど」  瀬奈の呆れた声に、海月は仕方ないでしょと唇を尖らせる。  海月がテントと称したのは、ただ砂浜の上に敷物シートを敷いて四隅に重しである石を置いただけのものだ。しかしバイトもしていない高校生の海月では、キャンプ道具だなんて高いものに手を出せるはずがない。ちなみに寝袋は瀬奈が持ってきたものだ。  海月は石を綺麗に除いた砂浜の上に、美術室から無断で借りてきたイーゼルを置く。地面が砂なのでぐらついたが、深く突き刺すと何とか固定出来た。 「こんなんで天使を見つけられるわけないでしょ……」  海月はイーゼルにスケッチブックを立てかける。 「わかんないよ。諦めたら試合終了っていうし、やるだけやってみたい」  瀬奈が、硬い声でそうだねと言った。  海月は瀬奈を見た。背中を向けて寝袋を整えていたから、彼女の表情をうかがうことは出来ない。  いつもとは違う、どこか緊張しているような彼女の様子に海月は首を傾げたが、彼女なら言いたいことはすぐに言うだろうと思い、目を逸らした。  それからも黙々とスケッチする準備をしていると、段々風が冷たくなっていった。何となく天使を見たあの時と空気が似ていると思い、海月は小さく心を躍らせる。 「あんたはさ、どうしてそんなに天使の姿を残したいの?」 「え?」  瀬奈の言葉に、海月は振り返る。  いつもより声のトーンが低い。単純に機嫌が悪い時とは違う、どこか冷たい雰囲気を瀬奈は醸し出ていた。 「人間が天使の姿を正確に描きうつそうとしても、意味ないと思う」 「……どうして? どうして、そんなこと言うの?」  海月は唐突な彼女の言葉に、眉をひそめる。  瀬奈はこれまで、海月の天使執筆を呆れた顔で見守ることはあれど、否定することは一度もなかった。こうやって協力してくれるくらいには、応援してくれていると思っていた。  なのに何故、今そんなことを言うのだろうか。 「見る人間によって、天使の姿は変わる。その人間が思う理想の天使になる」  瀬奈はぼそぼそと話す。  いつもはきはきと喋る彼女にしては、あまりに『普通』じゃない。いきなり、知らない誰かになってしまったみたいだ。  それに。 「……何で、そう言い切れるの? まるでそう決まってるって知ってるみたいに……」 「……」  彼女は無言で、寝袋から手を放す。 「ねえ海月。あたしさぁ……」  嫌な予感がする。ざわざわと胸が粟立つ。  何かが変わってしまうような、もう変わっているような、そんな焦りが波立っている。 「今日、人間の成人を迎えたからさ。還んなきゃいけないんだよね」 「……は」  彼女は今、何を言った? 「成、人? 誕生日……ってこと? けど、瀬奈の誕生日は……」 「下界に残したあたしの情報、全部嘘なんだ。この顔だって、人間に扮する仮面をかぶってる」 「……」  海月は何も言えなかった。  思考が動かない。寒さだろうか、それとも何かしらへの恐怖だろうか、意味が分からないくらいに頭が鈍っている。  とにかく親友の言葉が理解出来ない。 「楽しかったよ。あたしずっと人間に憧れててね。ずっと人間界で人間の生活をしてみたかった」  瀬奈は背を向けたまま、淡々と話している。  どうして、海月の方を見てくれないのだろう。 「神に頼んで、必ず天に還ることを条件に下界へ降りた。片翼は契約の担保さ。天使は両方の翼がないと、いずれ悪魔に身を堕とすから」 「天、使……?」  ああ、訳が分からない。  海月の親友は人間で、ずっとずっと昔から一緒にいたはずだ。  天使みたいな、美しくもヒトとは違う生き物ではなかったはずだ。  これからも一緒にいるんだと……そう思っている。 「あたし……あんたに本当の姿を見せたかった。ねえ、きっとあんたは知らないだろうけど、あんたが描いた絵は、全部顔が違うんだ。天使の本当の顔は、神しか見ることは出来ないから」  強く風が吹く。とっさに目を瞑ると、ばさりと何かが羽ばたくような音がした。おそるおそる目を開ければ、瀬奈がさっきまでと同じように背を向けたまま佇んでいる。  しかしその足先は地面から数センチ浮き、その背には片翼の白い翼が生えていた。 「あんたのこと、祈っとくよ。ずっと元気でいられるように……」  瀬奈の姿が白く輝いている。海月は手を伸ばした。 「ねえ、待って瀬奈。そんなお別れみたいに――」 「お別れなんだ。……さよなら、海月。あたしのこと、覚えてて」  瀬奈の手が、海月の頬に触れる。冬の海水よりも冷たいその温度に、海月は背筋を震わせた。 「瀬奈」 「ばいばい」  冷たい手が離れていく。  海月の意識は急速に遠くなり、目の前に暗がりが広がった。
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