騒音罪

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人類は音と共に、その歴史を歩んできた。 動物の鳴き声が、いつしか音声言語となり、円滑で的確なコミュニケーションを可能にした。 また、自然の音を愛し、そこから音楽というものを作り上げた。 人類と動物とは違うもの。 それは音をツールとして使用し、楽しむ。 その反面、人類の進歩によってもたらされた弊害、騒音。 騒音によって、多くの人の精神は疲弊していった。 騒音は……人によりその定義は異なる。 激しいロックやヘビメタを好むものにとって、それは心地よい音色なのだろうが、 興味のないものにとっては騒音以外の何物でもない。 産業革命を契機に騒音問題は膨れ上がり、人類は日々耳障りな不協和音に悩まされ、それを解消するために文明が更に発展したといってもおかしくはない。 そして現代に入り、ついに人類は長年の悩みの種であった騒音の一切を排除することに成功した。 耳元でアラームが鳴る。 起床の時間である。 私は身体を持ち上げ、ベッドから降りる。と同時にアラームが鳴り続ける就寝用ヘッドホンを耳から外す。 そして素早く室内用個人ヘッドホンへとかけ替える。 ヘッドホンからは朝の目覚めを優しく迎え入れるような、心地よい小川のせせらぎと、小鳥のさえずりが流れてくる。 私はその耳障りの良いBGMに包まれながらダイニングに向かうと、既に妻が朝食を食べている最中だった。 「おはよう。今日は早いんだな」 私が口を開くことなく、頭のなかでその言葉を唱える。 「今日はあの子、部活の朝練があるからって、弁当を作らされたのよ」 今、耳にかけているヘッドホンから、妻の声が直接入ってくる。 妻は顔を向けることなく、トーストを口に入れ食事を取り続ける。 どうやら息子の部活の朝練があり、その準備のためにいつもより早く起きたのだろう。その息子の姿は、もういない。 お互い無言で食事を取り、先に食べ終えた私は、そのまま出勤のため、部屋をあとにする。 「いってきます」 「いってらっしゃい」 顔を会わせることなく、お互いがヘッドホン越しで挨拶をする。 私はそそくさとガレージに停まっている車に乗り込む。 職場までは車通勤だが運転する必要はない。ほとんどは自動運転で目的地さえ入力すれば、勝手に向かってくれる。 ここは移動する自室のような物。 しかも、完全防音。 叫ぼうが大声で歌おうが、外に漏れることはない。 エンジン音も全くしない。 まるで滑るかのように移動する車。 周囲には一切、不愉快な音は漏れない構造となっている。逆もしかり、外部からの音は一切侵入してこない。 緊急車両が迫るときは、車がそれを感知し、路肩に自動で停まるよう、適切な対応を取るようになっている。あの、前世紀のように、緊急車両がけたたましいサイレンを鳴らして走る姿などはもうない。 申し訳ない程度に、ヘッドホンから間も無く車両が通るという事前通告が優しい自動音声で注意される程度だ。それは周囲を歩行する人間にも同じだ。 現代、外を歩く者も、ヘッドホン着用を義務付けられている。 緊急車両の通過や、地震等の注意報は直接ヘッドホン越しに伝えられる。 それ以外の、外部かの騒音が入ってくることはない。いつもヘッドホンからは心地よい自然の音が流れてくるのだ。 仮にもしこな車がエンジン不良で、ちょっとでも音を外部に出そうものなら、私はすぐさま通報され、騒音罪で逮捕されてしまう。 現代を生きる人間は、騒音には敏感だ。極力、音を立てないように生活し、そして出来るだけ不必要な音は耳に入れないようにしていた。 その結果が、国民の義務として課せられた、このヘッドホンの着用だった。 私は職場に着くと、職場では会社から支給されたヘッドホンを着用する。 ほとんどパソコンの前に座っての事務処理が大半なのだが、その際も着用する。 これ社内用のヘッドホンには重要な機能があり、社内通達などは一斉に全従業員のヘッドホンに向けて音声で発信される。 メールでも送られてくるのだが、見忘れという事態を防ぐため、必ず音声で軽やかなメロディーにのって送られてくる。 それ以外にも、政府からの地震や台風などの緊急事態。家族からの連絡。時事問題やニュースなども、このヘッドホンを通じて配信される。 これには電話の機能も備わってある。 声帯を震わせ口から声を発すると、騒音罪に触れるため、口を閉じたまま骨伝導と脳波を使って指示が出せる。 家族との会話も、最近ではこの昨日を使ったやり取りばかりだ。 会議などもそうだ。 この現代では、会議もネットを通しての打ち込む文章でのやり取りが大半だが、まれに会議室にて直接顔を合わせたミーティングも実施されることがある。 その時にこの機能が非常に役立つ。 お互いの考えや思考が、相手のヘッドホンへと共有され言葉となって耳から流れる。 こうして、必要もない不快な音を聞くことは無くなり、必要なことだけを適切に伝えられるようになった。それ以外の時間は、時分にあった曲やBGMを流すことは可能だ。これもあくまで個人の趣味の範囲内で、個人が楽しむだけのもの。 もし、ヘッドホンが故障し、私の聞いている曲が周囲に漏れでもし、不愉快に思った人がいれば、私は騒音罪で逮捕される。 こうして、日常生活において騒音などという公害はほとんどなくなった。 素晴らしい時代になったものだ。 もちろんこれは、寝るときも着用する。ほとんど24時間、これがなくては生きていけない。余計な音が耳のなかに入ってくるからだ。これさえあれば、外部からの音に悩まされることなく、静けさの中で安眠することができる。逆に無音が辛い時には、ヒーリングミュージックでも流せば良い。 ……そして今日も目覚め、家族と口を開くことなく、会話をして、出社する。 車には乗っていれば、あとは勝手に会社へと着くはず、だった。 しかし……家を出て間もなくのとこだった。 パーーーン!! という大きな破裂音。 車内にいても聞こえるほどの音が周囲に響き渡る。 まさか……と思ったが、どうやら原因は私の車のようだった。 タイヤが破裂したのだ。 車はすぐに自動で停まり、やがて回転灯を光らせたパトカーが、音もなくやって来る。 この先、私が待っている刑を想像すると……とてもではないが それは24時間、ヘッドホンなしで、独房へと放り込まれるのだ。 そこでは日中は、わずかだが生活音が、否応なしに耳に入り込んでくる。 水が管を通って流れる音。 通路を歩く人の足音。 風が壁を叩く音。 気がざわめく音。 虫の飛ぶ音 どこか遠くで工事をする音。 そして……自分の息遣いと心臓の音。 とてもではないが耐えられない。 不愉快で頭が録れそうだ。 夜になると、逆にこの静けさが不安を掻き立てるのだ。 あの心地よいミュージックか 音楽がないと眠れない。 気が狂いそうになる。 こんなことを毎日続けていたら、確実に人の精神は崩壊してしまうだろう。 この刑には、そういった意味が込められていた。 騒音罪。 二度と他者に不快な音をたてることのないよう、戒めるための法。 こうして、我々は不愉快な騒音を取り除き、安寧の静けさと人類の発展を手に入れたのだった。
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