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朝食が終わり、魔界に帰る時間が近づいてきました。
私たちの間に少しだけ寂しい気持ちがありましたが、この特別な時間は平穏な日常があるから特別なのです。寂しいけれど私たちの日常は魔界です。
でも魔界に帰る前にイスラを先頭にして私たちは山を登っていました。
「こっちの方角だ。ここから急な坂道になるから気を付けろ」
「はい、ありがとうございます」
「まって! ぼくもあにうえといく!」
私と手を繋いでいたゼロスが駆け出していく。
途中で転びそうになっていましたがイスラと並ぶと嬉しそうな笑顔を浮かべます。
兄弟で並んだ後ろ姿がなんだか可愛らしくて微笑ましい。
思わず笑みを浮かべると、私の前にハウストの腕が差しだされました。
「ブレイラ、掴まるといい」
「ありがとうございます」
気遣ってくれるハウストに私も素直に礼を言う。
差し出された腕に掴まって歩きます。
私は山育ちなので山の急な斜面など平気です。ハウストの気遣いもそれほど必要ではないと彼もそれを分かっている。でも、そういうことではないのですよね。
「本当にここへ来て良かったですね。イスラもゼロスも嬉しそうです」
「ああ、大変なこともあったがな」
「ふふふ、お疲れ様です」
笑いかけるとハウストが優しく目を細める。
嬉しくなってハウストの腕にそっと擦り寄ると、さり気なく髪に唇を寄せられました。
こうして四人で山を登り、そして目的地へと辿り着く。
「ブレイラ、着いた。ここだ」
そう言ってイスラが振り返る。
ゼロスも「はやくはやく~!」と大きく手を振って、瞳を輝かせて少し興奮しているよう。
私はハウストとともにイスラとゼロスの元へ足を向けました。
そして。
「ああ、すごいっ。山の向こうまで見えそうです!」
視界一杯に広がった景色に感動しました。
そう、ここは以前イスラが話していた見晴らしの良い丘です。
どこまでも続く空の青と、雄大な山脈が連なる光景。山脈の尾根と空の境目まではっきりと見えて、まるで一枚の風景画のように美しい。
「素晴らしいですね、イスラ。あなたの言っていたとおりでした」
「ああ、ブレイラに見てほしかった」
「ありがとうございます」
イスラが嬉しそうに頷く。
イスラの隣にいたゼロスは丘からの眺めに瞳を輝かせ、「やっほー! やっほー!」と山脈に向かって大きな声をあげている。
無邪気な姿に私も笑ってしまいました。
「イスラ」
「なんだ?」
イスラが私を振り返りました。
目が合って、私は掴まっていたハウストの腕から離れてイスラの前へ。
「ここへ連れて来てくれてありがとうございます」
あなたとゼロスとハウストと、四人でこの場所にいることが幸せです。
あなたが美しいと思ったものを私も知ることができました。
「私はね、イスラ。あなたが成長するにつれて私の知らないあなたの時間が増えていくことが寂しいです。あなたは旅立つ時、いつも私を振り返らない。子どもの頃からですよ、気付いていましたか?」
「えっ……」
イスラが驚いた顔になりました。
やっぱり気付いてなかったんですね。
次には困った顔になって落ち込んだように視線を下げる。
ごめんなさい。責めたつもりはないんです。
でも寂しいのはほんとう。あなたが私を振り返らないのもほんとう。
あなたは子どもの頃から困難な戦いに赴く時は前だけを見つめて、まっすぐに走っていった。何ものにも屈しない勇者の瞳は私を振り返らない。
私はイスラへと手を伸ばし、その手を取りました。
両手でそっと握り締めるとイスラがおずおずと顔をあげる。
「あなたは今、たくさんのことを経験しているのですね。世界のあらゆるものを見て、触れて、感じて」
「ブレイラ……」
「それを少し寂しいと思ってしまう私を許してください」
「…………寂しいのか?」
「はい。いつも私の側にいたのに、私の知らないあなたの時間が増えていく。いつも手を伸ばせば手を繋げたのに、今はお手紙を書かなければならないほど遠い場所にいる。だから」
そこで言葉を切って、イスラに優しく笑いかける。
離れている時間が増えたけれど、私の気持ちは過去も今も、そしてこれからも変わらない。
「あなたが見聞きしたことを私に教えてください。私にも見せてください。どんなに遠くへ行っても、私の元へ帰ってきてください。約束です」
「分かった。約束する」
イスラがまっすぐな眼差しで言いました。
強い意志を宿した紫の瞳。私が信じるイスラの瞳です。
「ありがとうございます。これであなたを待つことができます。寂しいけれど、寂しくありません」
「…………寂しいのに?」
「寂しくありません。寂しいけれど……」
「…………意味が、分からん」
首を傾げてしまったイスラ。
私は小さく笑ってしまう。
するとイスラが少し拗ねた顔をして、ああ、ごめんなさい。からかっているわけではないのです。
「ふふふ、すみません。こればかりは複雑なんですよ。答えを一つにすることは出来ません」
許してくださいねとイスラの顔を覗き込む。
イスラは不貞腐れた顔で顎を引きながらも、「……許す」と一言。ありがとうございます。
私はイスラと手を繋ぎ、一緒に丘からの景色を眺める。
イスラとゼロスとハウストと私、四人で同じ場所に立って、同じ景色を見て、美しいと同じ気持ちになっている。
それは私の心に深く、深く刻まれる思い出の一つになりました。
こうして、人間界で過ごした時間は終わりました。
ゼロスから受け取った薬草は水に濡れて使い物にはなりません。でもいいのです。乾かして記念に残しておきましょう。栞を作るのも良いですよね。
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