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「源融は嵯峨天皇の皇子であり」
勉強は嫌いだ。
「後に左大臣従一位となった人物です」
うるさい教室も。
「それじゃあ…」
退屈な授業も。
「ーーさん、お願い」
ただの惰性でしかない。
けれど。
「『陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに』」
鼓膜を揺らす、美しい音。
「『乱れそめにし われならなくに』」
無口なあの子の声が聴ける。
耳を澄まさずとも、はっきりと。
「陸奥のしのぶもぢずりの衣の模様のように、私の心は忍ぶ恋で乱れている。誰のせいでしょう」
胸の鼓動がその声を掻き消さないよう、抑えながら、繕いながら。
集中する。一言も聴き溢さないように。
「私ではない。あなたのせいなのに」
このひとときだけは、特別な時間なのだ。
古典が好きなのか、それとも内申をのばしたいだけなのかはわからないが、誰もが視線をそらし、指名されるのを嫌がる中、彼女は決まってその授業で手を上げた。
他の教科では存在を消すかのようにピクリともしないその腕がすっとのび、教室で唯一主張をする。先生もこれ幸いとあてるので、この授業の時だけはいつも彼女一人の朗読会となっていた。
昼時を過ぎた教室の空気はまどろみを帯びている。程良い眠気と窓の隙間から流れこむ風が、開いたページのつまらない文字列と相まって、クラスメイトたちを夢現つにさせていく。
教科書を立てて眠る友人や欠伸をしながら机の下でスマホを触るクラスメイト越しに、立ち上がり、凛とした表情で読み進める彼女を、僕は見つめていた。
悟られないように、けれど見逃さないように。
「『由良の門を 渡る舟人 かぢをたえ』」
鈴を転がすように美しく澄んだ響きが耳に流れ込む。
「『ゆくへも知らぬ 恋の道かな』」
雑音のない中で、普段物静かな彼女の声を聴ける機会は貴重だった。
とりわけ接点もなく、話しかける度胸もない僕には、彼女を視界に入れるタイミングさえ与えられないに等しく。合法的に見ることを許されているように感じるこの授業は僕の胸を高鳴らせる。
教科書に視線を落とし、読み上げる彼女の横顔を目で追う。騒ぐ鼓動を周囲に気づかれやしないかと心配しながらも、嫌な緊張感ではないのはこの時間を心待ちにしていたからだろう。
「では続けて、この句の現代語訳をお願い」
やわらかい風が小さく横切った。静まる教室に存在するのは何百年も昔の言葉だけ。
けれど、彼女の口から流れ出たなら、意味がわからない悠久の歌でさえ不思議と価値のあるものに変わる気がする。
適度な満腹感と疲労感が邪魔をして、僕たちを夢へ誘おうとするけれど。追い討ちをかけるように暖かい日差しに包まれたとしても、僕は眠ったりはしないだろう。
夢よりも夢のような時間を少しでも長く、感じていたいから。
「由良川の河口を渡る船頭が、櫂をなくし漂うように」
誰に宛てた歌かなんて知りはしないし、誰が詠んだのかも忘れた。でもかまいはしない。
その唇から紡がれたなら。
「どうなるのかわからない」
今はすべて、彼女の歌になる。
「私の恋の行く末です」
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