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僕たち家族の住む家は森林のほど近くにある狩猟可能区域にあった。広大な土地の実に九割を森林が占め、残る一割が農耕地と居住地、そして交易地。僕たちが住んでいる場所は地図で見ると居住地ではなく森の中だ。
父は人喰いの『あの獣』を専門に、僕は小型の獣を中心に狩猟に従事し生計を立てている。森で獲物を狩り狩猟会社に持ち込み報酬をもらう。毛皮も肉も買い取ってくれるが、一部は自分たちで使うこともある。母が着て行った衣類のように。
母が何故父のところに嫁いできたのか、その理由を聞いたことはない。父は獣のような大男で、この家ほど相応しい場所がないほど寡黙だった。この家では床の軋む音と、遠くで響く銃声、獣の断末魔以外に音はない。雪がほとんど全ての音を吸収してしまうからだ。
唯一、母が僕に語り掛けたり子守唄を歌ったりする時だけこの家は温もりを取り戻した。子守唄を歌う母の顔を見上げたのが、僕の最初の記憶。母はしょっちゅう僕に何事かを語り掛けたが、僕の耳には届かなかった。その声があまりにもか細かったから。ただ子守唄だけは違った。母のか細い歌でも、明確な意思を持って紡がれる音階だけは、静けさの中に溶け込まず僕の周りを温かく包み込んでいた。
僕は育つにつれて、まるで母の血など一滴も入っていないかのように父に生写しになっていった。僕は父に似て寡黙で、母の朗らかさは持たなかった。母の華奢な体から生まれたと思えないくらい僕の体はどんどん大きくなって、家はどんどん小さくなっていった。家を占める沈黙の比率が高くなって、母の居場所はなくなっていった。だから母は僕を連れていかなかった。どこに引っ越したとしても、僕の体はあまりにも大きく、あまりにも父によく似ていた。
鉄枠の嵌った窓が、母には牢獄のように見えていたのだろう。猟銃の盗難防止に設置された鉄枠が強盗を遠ざけるのと同じだけの力を持って、母を外の世界から遠ざけた。母が人間として生きるには、家から出るより他にはなかった。
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