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「ねえ、ダーリン。あたしのこと、好き?」
甘い声が脳内で溶けていく。
酒が入ってまともじゃなくなった俺の頭では、今の状況を理解できなかった。
いつものようにシングルのベッドで大の字になって寝転がっている俺に、どうして彼女はまたがっているのだろう。
学生の頃には引き締まっていたが、今はだらしなくたるんでいる腹の上に、彼女は小さな尻を置いている。いつもなら、当たり前のように揉み始めるが、今はそんな気すら起きなかった。
ぼろいアパートの小さな部屋の中に酒と煙草の匂いがこびりついている。両方、俺のせいだ。生活感にいまいち欠けたこの部屋は、彼女のものだ。彼女が家賃を払っている。そして、俺はずっとここに居座っている。
煙草はベランダで吸って、と何度も頼まれたのに、俺が何度も無視して繰り返すから、彼女はもう何も言わなくなった。小さな冷蔵庫の一角をビール缶が占めているのは、俺が頼んだからだ。
「ねえ、ダーリン。」
ダーリン、ハニー。俺達はそう呼び合う。学生の頃、二人で見た洋画がきっかけだ。映画の二人はそれが様になっていたが、俺達がするとただの痛々しいカップルに成り下がった。それでも、俺達はそう呼び合った。彼女の名前を忘れてしまうほどの長い間、そう呼び掛けた。
彼女の細い親指が俺の喉仏を押している。他の四本の指が、首筋に食い込んでいる。
淡いピンクに彩られた爪は、彼女によく似合っている。
「あたしのこと、好きだよね?」
二十八歳なのに、あたし、というのはいかがなものだろうか。けれど、それすらも彼女によく似合っていた。
そう、二十八歳だ。俺も二十八歳だ。もう六年間も怠惰な生活を送っている。
俺達が出会ったのは、大学の入学式だった。俺のスーツの裾が破れていて、それに気付いた彼女が声をかけた。そのせいで、彼女はこんなくだらない男と日々を過ごすようになる。
でも、学生の頃はまだ健全な関係だった。俺も彼女も一人暮らしをしていて、常に節約を心がけていたから、大したことなんてできなかった。それでも、幸せだった。
そういえば、告白は彼女からされた。それが驚きで、人生初の告白に舞い上がった俺はよく考えもせずに頷いた。告白の言葉は「きみもあたしのこと、好きだよね?」だったはずだ。
同じ言葉なのに、声色が違うとここまで印象が変わるのか。彼女の目を見たまま、感心する。
強気な人が、どうして俺なんかに惹かれたのだろうか。どうして、ずっと俺を家に置いたのだろうか。就活に失敗して、彼女の家に住みつくようになった。それでも追い払われることがなかったのは、縁を切られることがなかったのは、どうしてだろうか。
「好きだよ。」
首を掴まれているので、唾を呑み込むことすらいつものようにできない。
「嘘。本当に好きなら、なんであたしを大切にしてくれないのよ。」
「好きだよ、ほんとに。」
ああ、好きだ。彼女への想いが途切れたことは一度もない。
小柄だから舐められないように威勢よく、という姿勢も、笑うと目が三日月みたいになるところも、膨らんで独特な香りで俺を煽る胸も、学生の頃に俺があげたピアスが光り続ける耳も、好きだ。米粒一つ残さないところも、知らない年寄りに親切にできるところも、生意気な子どもに笑いかけるところも、全部好きだ。
どうして、この気持ちを嘘だと決めつけられなければいけないのだろう。
たしかに、なかなか大切にできていないとは思っているが。
「あたし、もう六年も待った。けど、あんたは就職活動もバイト探しもしなかった。家で手伝ってくれることもなかった。履歴書も書かないし、スーツも買わないし。そのためにあげたお金で競馬に行くとか、糞じゃない。」
だって、と言いかけて、その言葉を飲み込む。
百均やコンビニを回っても履歴書は見つからないし、スーツだって気に入るものがなかったのだ。
そう説明しても、彼女が納得してくれることはなかった。
「六年待ってもあんたは変わらなかった。きっとこれから五年も十年も待ったって、あんたは一生このまま。あんたの馬鹿みたいな人生に、あたしを巻き込まないで。」
俺を罵る声や俺を掴む指が震えていた。彼女の大きな瞳からこぼれた涙が、俺の頬に落ちる。冷たかった。涙も、指先も。
「あたし、好きな人ができたの。その人と結婚する。」
胸を抉られるような告白だった。
俺より先に就職が決まったとの報告よりも、俺と付き合う自分が理解できないと気まずそうな顔で言われた時よりも、ぐさりと胸に深い跡を残す。
いつから、だれだよ、なんで。言いたいことはたくさんあったけれど、声が掠れて結局口を動かしただけだった。
「あんたと違って、とっても素敵な人。やさしいし、ちゃんと仕事してるし、お金もあるし、紳士的だし、あんたと比べるのもおこがましいぐらいの人。」
彼女の目には、俺はどういう風に映っているのだろう。
くだらない、落ちぶれた、生きる価値もない馬鹿な男。そう思われても仕方がないことをしている。
今からでもやり直せるだろうか、と思った。今すぐに彼女を抱きしめて、明日スーツと履歴書を買って、就活サイトにでも登録すれば、彼女の心は俺に向くだろうか。
そんなことを考えている俺がいる。
それでも、口から出た言葉は「そうか。」の一言だった。
きっと、もう手遅れだ。
彼女の顔が歪んだ。涙が溢れ出す。雫が落ちてくるたび、俺の心臓が締め付けられていく。
ごめん、の一言すら言えない。ありがとう、の五文字すら伝えない俺なんかより、もっといい人と幸せになってほしい。六年も縛り付けて、ごめん。
彼女に直接伝えないと意味のない言葉も、口は伝えようとしない。
その代わり、こんな状況で言うことではない言葉が漏れる。
「そういえば、最近三日月見てなかったなあ。」
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