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『これを食べると、アルシュ様がくださった時のことを思い出します』
優しい声が耳の奥によみがえる。アルシュは店を出て歩きながら、自分の足がどんどん重くなるのを感じた。
(いつも無邪気に喜んでくれたあの子はもう、いないのに……。菓子なんか買ってどうする)
虚しさばかりが広がり、心はどこまでも重く沈んでいく。
「あれ? あの時の旦那様!」
アルシュに声をかけたのは、ユノースといた時に花を買った少年だった。花売りはちらりとアルシュの後ろを見た。
「今日は、ご一緒じゃないんですか?」
「……あの子は、故郷に帰った」
「え? 帰ったって、お一人で?」
アルシュが頷くと、花売りの少年は眉を顰めた。少年は恐れる様子もなくアルシュを見上げて言った。
「あんなに綺麗な人、しっかり捕まえておかなかったら、すぐにさらわれちゃいますよ? 何だか妖精みたいにふわふわしてたし」
「……!」
花売りの少年の言葉は、アルシュの胸に突き刺さった。思わず目を見開く。
(さらわれる? ユノースを?)
「あの人、旦那様のいい人じゃないんですか?」
「え? あ……」
「違うの? おかしいなあ。俺の予想は滅多に外れないのに」
足元がぐらぐらと崩れるような衝撃だった。
そうだ、いくら彼を想っていても、離れているうちに他の者に奪われるかもしれない。ユノースは可憐で愛らしい。力自慢の田舎者に襲われでもしたらひとたまりもないだろう。
勝手にユノースに群がる荒くれ男たちを想像して、アルシュは居ても立ってもいられない気持ちだった。だが、自分には大事な仕事がある。幼い頃から主に仕えることが第一と叩きこまれて育ったのだ。一体、どうしたらいいのだろう。
手にした菓子を黙って少年に渡すと、屋敷までふらつきながら歩き始めた。そこに花売りの少年が追いかけてきて、アルシュの手に紫と青の花を押し付けた。
「ねえ、旦那様。母さんが言ってたよ。大事なものは絶対離しちゃダメだって!」
アルシュは花売りの頭を撫でて、ありがとうと礼を言った。大事に花を持ち帰って、部屋の机の上に飾る。寄り添う花を見ていたら、胸の痛みが和らいだ。
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