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1.銀杯と鬼執事
――銀杯が銀器棚にない。
それがすべての発端だった。
「なぜ、銀杯が晩餐室に?」
ランヴィル公爵家の執事であるアルシュ・ハワーズは、顔色を変えた。
漆黒の夜空に例えられる切れ長な瞳に睨みつけられ、報告に来た従僕は震えあがる。
食器室の銀器棚に収まっていなければならない銀杯が晩餐室にあった。それは考えられないことだった。銀器を使用するには執事の仕事場である食器室に入り、銀器棚の鍵を開けなければならない。鍵を管理するのは執事だ。アルシュはただちに使用人たちを一室に集めた。
二十代後半に入ったばかりのアルシュは艶やかな黒髪を襟足で整え、すっきりと前髪を上げていた。すらりと長身な体は日々の鍛錬で鍛えられ、僅かな隙もない。
「この銀杯に、昨日触れた者はいるか?」
ざわついていた人々が、一斉に口を閉じる。部屋に通る声は相手を糾弾する響きを秘めていた。
一人の若者が前に出た。銀糸を編んだようにきらめく髪に大きな紫の瞳。儚げな美しい顔は真っ青で血の気がない。二か月前に公爵家に執事見習いとしてやってきたユノース・ブロイだ。ほっそりとした体は細かに震え、今にも倒れてしまいそうだった。
ユノースの口から絞り出すように、細い声が漏れた。
「昨晩、ウィラード様が銀杯をお使いになると仰いました。御酒をお召しになった後に、私が杯を戻すよう承りました。確かに食器室の銀器棚に収めたと思いましたが注意が足りなかったようです。誠に申し訳ありません」
ユノースが顔を上げた時に見た瞳は、真冬の夜空よりも冷たい。黒々と輝く瞳には侮蔑と明らかなあざけりが籠もっていた。
「ユノース・ブロイ。お前は仮にも執事を志す者として、銀杯を扱うことを何だと思っているのか? 銀杯とその辺の雑器の違いもわからぬ田舎者は、今すぐに荷物をまとめて故郷に戻るがいい」
その場にいた者の視線が一斉にユノースに集まる。ユノースの握りしめた指先は震え、喉はからからに乾いていく。それでもユノースは、なんとか声を絞り出して、深く頭を下げた。
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