落ちてくる人 第一話

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落ちてくる人 第一話

 もう、何時間になるだろうか。私はなるべく集中をきらさず、態勢を保ったまま、上空を見上げていた。後ろは巨大なダンプやトレイラーも行き交う幹線道路であり、前方には、いくつかの高層マンションが立ち並んでいる。始めのうちは、私の姿は群衆の中に溶け込んでいたが、人通りの少ないお昼の時間帯に入ると、ずっと、同じ態勢を取り続けている、私のことを気にかける人が出始めた。最初に少し丸顔の、人当たりの良さそうな中年の男性が、その何かに気付いたようで、上空を見上げながらも、私のすぐ横にまで歩んできた。彼も同じように、そのまま、十五分も二十分も同じ態勢を保ち、動けずにいた。彼は何かを見つけて、それに対して思いを巡らせているようであったが、ある程度の時間が経過しても、話しかけては来なかった。  その間にも、上空を見上げながら、足を止めている我々の姿を見とめた幾らかの人々がその歩みを止めて、上空にある何かを注意深く見つめるようになった。その表情は『あれは、いったい、何だろう?』ではなく、『あれが何であるかは分かるのだけれど、これから先、どうなるのだろう?』と言いたいようにも見受けられた。一瞬、それから目を離して、後方を振り返ってみると、広い道路の向こう側の歩道を、帰宅途中の学生数人が、やはり、この奇妙な事態を察したようで、こちら側にある雑居ビルの屋上、それは実は、私の眼前にある建物なのだが、その屋上付近を指さしながら、しきりに首を傾げていた。今のところ、『どうしたら良いのだろう?』よりも『これから、どう推移していくのだろう?』の方が、より的確な感想に思えた。我々人類がこの地上に登場してすでに久しいが、こと超常現象に関していえば、その具体的体験は、それほど豊かではないのだから。  私の周囲に合計十五名ほどのやじ馬が集まってきた。彼らは少なくとも、自分たちがなぜここで足を止めるのか、が理解できているわけだ。群衆を無視して行き過ぎていく通行人たちとはわけが違う。この事態に対して『自分にも何か出来ないだろうか』と考えているのかもしれない。もちろん、そんなつもりはなく、ただ、明日出会う予定の友人との話題にしたいだけなのかもしれない。どちらでも良いと思う。それほど、重要ではない。私がここへ来て立ち止まってから、三十分が経過した。ちょうどその頃、鋭いサイレン音を響かせて、パトカーがこちらへ向けて走ってきた。問題になっているビルのほど近くの道路脇に、その一台のパトカーは歩道に横付けする形で停車した。おそらく、複数名の警察官が乗っていると思われるが、彼らとしても、どんな理由があって、ここへ呼び出されたのかはまだ知らないらしく、ビルの前で佇む人だかりにあたりを付けて、この付近の道路へ停まったのだと思われる。  やがてパトカーのドアが開き、ふたりの警察官が降りてきた。彼らは人が多く集まっているビルの真ん前まで、すぐにやってきた。しかし、これほどの群衆が集まったその要因が分からず、少し当惑したような表情で、あちこちをうろうろとしたり、ビルの陰や裏口を覗いてみたり、落ち着かない様子を見せていた。その区画には、高いビルが三棟並んで立っていた。警官のうちの一人、おそらく、この方が上司だと思われるのだが、彼が周囲に集まっている群衆に向けて、いくらか通る声で呼びかけた。 「ええと、警察署の方へ通報されたのはどなたですか?」  周囲に佇む観衆は、それぞれ隣の人間と顔を見合わせるばかりで、きちんとした答えを返した者はいなかった。警察のふたりは動揺を隠したまま、『こういう事故現場においては、大衆からこういうぞんざいな扱いを受けるのは、もはや当然のことだ』とでも言わんばかりに、もう一度声を張り上げた。 「警察署の方に連絡を頂いた方は、どちらでしょうか?」  今度も返事はなかった。なるべく疑われまいと下を向く者もいた。帰宅途中であるにも関わらず、興味本位で立ち止まった人たちは、何か後ろめたいことでもあるのか、面倒ごとには巻き込まれまいと、急ぎ足で立ち去っていった。この場を取り仕切るべく現れた無名の警部であったが、事情聴取ができる相手が見当たらないので、しばらくの間、地面の上に血痕でも探すべく、その辺りをうろうろとしていた。この現場には八人ほどの目撃者、もしくは野次馬が雁首を揃えていた。しかし、自ら進み出て、現在の状況を説明しようとする者はひとりもいなかった。パトカーや警察官の姿が現れたことで、この付近に留まる人間は、ますます少なくなっていった。ふたりのうち、警部を名乗る男は、このままでは埒が明かないと判断したのか、一番物知り顔をしていた私の方に視線を向けて、一度首をひねってみせた。 「君はどうしてここにいるんだね? ここに人が集まっている要因について、何か知っているのかい?」  今起きている現象を簡単に説明するのは難しく思えたので、私は黙っていた。刑事は私からの聴取を一度諦めて、隣に立っていた肉屋の主人に声をかけた。 「お宅はどうです? 我々は市民から連絡を頂いて、電話でね、呼び出されたから、ここに来ているのです。いったい、この場で何が起きているのか、詳しい事情を知っていませんか?」 「あんたねえ、みりゃあ分かるでしょ。男性がビルの屋上から落下したのですが、宙で停止しているのですよ。ほら、そこです」  なるほど、その位置から真上を見上げると、地上から十五メートル付近で、宙ぶらりんになって停止している男性の背中が見えた。不思議なことに彼の身体はどんなに強い風が吹いても、びくりともしないのであった。高性能ヘリコプターのホバリングであっても、空中において、あれほどピタッと留まることは、なかなか出来ないだろう。ビルの屋上から吊り下げられているわけではないことは、まともな視力を持っている人間なら、遥か下から見てもよく分かるはずだ。まるで、大気に縫いつけられたように一ミリたりとも動かないのが見てとれた。  マンションが多いこの地区の空中において、趣味の悪い赤いTシャツにジーパンを着込んだ男性が上空に発見されてから、ちょうど一時間が経過した頃、彼の身体の一部が空間の歪みに引っかかっていることが判明した。よく目を凝らしてみると、地上からでも、空中で揺らいでいるその小さな傷が見てとれるのだ。あれこそは空間に生まれた小さな歪み、いや、ごく小さなブラックホールと表現すべきだろうか。我々にこうした事実を教えたのは、通りすがりの科学マニアの若い男性であった。 「あの黒い渦の影響により、あの男性の身体は、この地球上に存在する、あらゆる物体の速度と比較しても、律速段階に入ってしまったと、そう言えるのです。分かりやすく言いますと、我々と彼では、進んでいる時間の速度がすでに違うということです。思考の速度、周囲の状況を感じ取る速度、それに反応する速度、言葉を発する速度、それらすべてが緩慢になっているわけです。あの亀裂から救い出してやらない限り、ずっとこの状態は続きます。我々が彼の身体の側まで駆けつけたとしても、意思のコンタクトは絶対にとれないということです。まあ、こんなことには何の根拠もありませんけどね」 「そこまでは、なんとなくわかるが、要約すると、それはどういうことかね? ああ、聴き方が悪かったな。この後、どのような事態が起こり得ると予測できるかね?」  警部はこの科学者の自説をある程度は信用して、そのように丁寧に尋ねた。空間の繋ぎ目に人が吸い込まれる事態など、数百年に一度しか起きない現象だろうから、こうした柔軟な態度は適切といえた。 「そうですね、まあ、下手をすると、彼が地上に降りて来たときには、この星の寿命が尽きることによって、この世が終わってしまっているかもしれないということです」 「つまり、あの男性がここへ落ちてくるまでには、まだまだ時間がかかるということかね? そうすると、我々ではどうしようもないな。私だって、いつまでもここにはいられない。こう見えて家族もある身だし、今夜の夕食の豚カツだって楽しみにしているのでね」 「もうひとつ考えられるのは」  通りすがりの科学マニアは再び持論を語り始めた。 「あの男の身体は、実際にはもうすでに地面に叩きつけられている……。ただ、我々の側が大きなショックを受けたあまり、それを認識できないでいる。つまり、悪夢や幻覚を見るときと同じように、認識の錯誤が起きているわけです。皆が今見ているのは、すでに過ぎ去った過去の映像であり、(男性の即死が確定する)現実は、もっとずっと後の時間軸から追いかけて来ているのです」  もし、こんな現象は起こり得ないと主張するのであれば、まずは我々の視力を疑うべきだと、この科学者はのたまう。長時間に渡り、似たような風景を淡々と見続けていると、人の目はときに幻覚を引き起こすものだという。あるいは、この集団全体が催眠現象に陥っていることが、(あの男性が空中に止まって見える)主たる原因ではないだろうかと言う。そう仮定していくと、この場所で、落下してくる男性を眺めている、ここにいる全員が、今現在、まったく同じ幻覚を見ているということになるのだろうか? 本当はこの現象の結果(つまり、飛び降りた男の地面への激突)は、もうすでに済んでしまっていて、我々もその結果(男性の即死)を目撃して認知しているが、その悲惨な結末から何とか目を逸らそうと、無意識に催眠状態に陥っているということなのだろうか。  であれば、誰か一人が、たまたまでも、例えば、神さまの悪戯でもいいのだが、不意に正気に立ち戻った場合、まるで、人形劇のように、ここにいるすべての幻覚者たちが、パッと目を覚まして、それぞれにあたふたした様子を見せることになる。その後、自意識の回復には長い時間を必要とするものの、無事にいつもの日常に立ち戻って(本当の)現実を認識していくということも、十二分にあり得るのだろうか? しかしながら、例え、短時間の間だけに起こる症状にしても、これだけの長い幻覚を見るとなると、それは重症である。科学オタクの男は超常現象にも通じていて、そういう集団催眠は決して珍しくなく、十分に起こり得る現象だとのたまう。『本当はすでに終わった出来事だって?』一般的な常識だけで考察すると、それは、きわめて疑わしい主張に思えた。
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