落ちてくる人 第二話

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落ちてくる人 第二話

「我々が心理的ショックを受けて幻覚を見ているですって? 人がひとり飛び降りたくらいで動揺なんてしません。科学の先生、あんたも皆と同じように時空の変化についていけてない割には、表情ひとつ変えていないじゃありませんか。本当はあの男性が空中で静止していることを認めているわけでしょう? それなら、答えはひとつしかありません。心理学はまったく関係ありません」  肉屋は必死の形相でそう反論した。自分の意思と異なる、すべての理論を否定していくことで、この忌まわしい状況の、さらなる混乱を狙っているのかもしれない。こういう男が現れると、近所で二、三年に一度は起きる、火事場の様相である。つまり、他人の不幸を見て酒の肴にしたいだけで、被害者を救出するつもりなど微塵もないくせに、わらわらと集まってくる、野次馬ども。同情や優しさなど、これっぽっちも持っていない人間の集いとなる。 「ブラックホールが現実に存在すると信じなくともいい。ただ、これが現実に起きているとするなら、黙って突っ立っている理由はない。早いところ、このビルの階段を駆け登って、すぐにでも助けてやりましょうよ。ビルの上階から、道具を使って引いてやれば、今からでもきっと助かるはずです」  肉屋はさらに熱くなってそう叫んだ。  科学オタクは空間の歪みとブラックホールについては信じていたが、その意見には賛同しかねる様子だった。 「どうだろう……、あの屋上の一角だけ、時空が大きく歪んでいるようにも見えるし、その現象は今でも続いています。何の考えもなしに近づいていくのは、かえって危険では? 謎の渦に巻き込まれて、第二第三の犠牲者が出てしまうかもしれない……。我々はあの男の二の舞になってはならんのです。この難事件をこれ以上の被害者なしで何時(なんどき)無事に解決せねばならない」 「では、二、三台のシャベルカーを雇って、下から彼の身体を地上にまで引き寄せることは可能かね?」  ここで警部がいくらか建設的な意見を述べた。彼としても、ただ、市民たちに議論を任せたままで、ダンマリとしていたままでは、警察の沽券に関わると思ったのかもしれない。『よくわからないが、とりあえず口を挟んでおこう』の心理状態である。給料さえもらえれば、どんな無茶なことでもしようとする輩である。 「不用意に手を出すのはやめておいた方がよいでしょう。もし、あれが本物の小型ブラックホールであったとすれば、下手に触れたりしますと、突然の膨張を始めて、我々見物人のすべても亜空間の彼方に飲み込まれることになるかもしれません。いや、我々どころではない。この地球、引いては銀河系のすべてが、一瞬のうちに内部に飲み込まれて、消滅してしまうかもしれません……」 「そんなことを心配していたら、何も出来なくなっちまいますよ!」  肉屋が興奮してそう叫んだ。彼は事態の進展のなさに苛立っているわけではなく、元々、こういう人柄なのである。 「例え、これが理解しがたい現象であっても、起きてしまった以上、これから先はこの事実が真実になります。つまり、誰でも、いつどこにおいても、こういった事象に巻き込まれる可能性があるということで、それは、短絡的な発想から生まれた小説や映画の遥か上を越えていく超現実の世界です。恋人とデートしているときも、ひとりで涙に暮れているときも、三日に一度の食事をとっているときも、いつ何時(なんどき)、あの黒い渦が自分の真横に現れて、この身を飲み込んでしまうのではないかと、脅えながら生活することになるでしょう」 「ブラックホールは現在我々の真上にあります。あの現場のすぐ近くにいるということが、すでに危険なことなのでは? こうして余計な議論をしている間にも、あれが巨大なブラックホールへと突然変化して、我々は地球上にいる他の誰よりも先に、あの暗い渦の中に身もだえする暇もなく吸い込まれて、一瞬のうちに、骨まで粉々に砕かれて消滅することになるかもしれないんです」  私は何を言うこともなく再び上を見上げて、まったく落ちてこようとはしない、被害者の男性の丸々太った間抜けな背中を下から眺めた。一般大衆に重大な情報を隠している私の態度は、決して褒められたことではない。しかし、世界各地において、あるいは人類の大多数を今にも飲み込もうとしている巨大渦が存在している可能性を思えば、今我々が直面している、(ここに集まった間抜けどもには)自殺志願者と思われている、ひとりの男性が空間の狭間に落ちる落ちないといった問題は、ひどくちっぽけで単純な問題に思えるではないか。我々人間は、どんなに訓練をしても、たった一秒先のことも予知できない。未来において、自分に起こる危機から身を守る手段を講じることはできない。もし、できると豪語する者がいるとしたら、その手法はすべてインチキである。ひとつ言えることは、これからあの男性の身にどのような結果が出ようとも、それは『元々、起こるべき避けようのない結果』であったわけだ。 「だが、その理論だと、この地球上のどこへ逃げたとしても、危険度では大して変わりないという結論に至りませんか? ブラックホールからは光さえ逃れられない、と若い時分に聴いたことがある。もちろん、その学説が唱えられたのは、もう、三十年以上も前のことなんです。今では、過去の偉人よりも、もっと優秀な現代の学者たちにより、その存在そのものが根本から覆されているのかもしれない。例えば『誰だって、手足をこうやってジタバタさせれば、ブラックホールから脱出することが出来る』とかね。結局のところ、ご大層な理論なんて必要はない。誰かひとりがあの小さな渦にもう少し近づいて試してみればいい」  科学者は冷酷にそう言い放った。 「ですから、その最初のひとりが、今まさに吸い込まれようとしているではありませんか。空中において完全に固まってしまっている彼の現況が、空間の歪みに抵抗することなどできないことを証明している」これは肉屋の意見だ。 「その通りです。肉屋さん、あなたは今、大変有意義なことを仰られた。あの中年の男性が、小型ブラックホールに接触してしまったのは単なる偶然であり、他には何の要因もないんです。ふたつの物体がただほとんどあり得ない偶然により接触したに過ぎない。つまり、あのブラックホールに触れてしまい、あのように、身動きひとつ取れなくなるのは、別に彼でなくともよかったわけです。つまり、我々の中の誰かひとりか複数が、この道を通過する際に、彼のように渦に飲み込まれ、犠牲になる可能性も多分にあったことになります」  科学オタクは通りがかりのくせに、少し偉ぶった様子で場の空気をまとめようとした。 「仮にあの歪みがブラックホールだとして、この現象が起きたのは単なる偶然のものなのか、それとも、彼の行動や倫理(どうとく)が原因で起こされたことなのか? 説明がつかない以上、物理学の問題というよりは、超常現象に近いのでは?」  肉屋は興奮のあまり握りしめた両手を時折カタカタと震わせながら、熱くそう語った。野次馬のうちの何名かが、この極めてあやふやな意見に諸手を挙げて賛同した。科学マニアは持論の勝利を決定づけるために、さらなる演説を始めた。 「私の見解では、あの空間の歪みは、昨日今日生まれたものではありません。もう幾十年も前からあそこに存在していたはずです。偶然にも、古いビルの屋上付近という、誰からも見えにくい、しかも触れられない位置に生まれたために、これまでは誰もその存在に気がつかなかったわけです。本日、あの男性が自殺か、あるいは、屋上から足を滑らせて転落したことで、初めて、あの位置には元々ブラックホールが存在していたことが立証されたのです」
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