落ちてくる人 第五話

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落ちてくる人 第五話

「助かる、助からないではなくて、これは人道的な問題として見るべきだよ。ひとりの命を救うべく、我々は何らかの行動を勇気を持って起こすべきだよ」歩道の方から誰かがそのように訴える声が聴こえた。  決して大きくはなかったその前向きな意見(こえ)は警部の耳にも届いていた。警察が危機に瀕する人の命を救いにいくことは道徳と税金の両面から考えて、至極当然である。 「別にそんなことをする必要はないと思うがね……」  警部は小さい声だが、反抗の意志を込めて、さりげなくそう言った。そう、警察組織は市民を守るために存在するわけではない。市民を見張って縛るために存在するのだ。その点は私も警部に賛成だった。彼らは別に市民の味方ではない。 「あの男の落下地点になる可能性がきわめて高い、マンション前のこの一帯だけでも、結果が出るまでは封鎖しておいた方が良いのではないでしょうか? 人通りが多い時間帯に不測の事態が起きれば、それは二次災害になる危険性もあるわけですし」  部下の警官が久しぶりにまともな意見を出してきた。しかし、警部の顔は渋いままだった。素直には賛成しかねると言いたげな様子である。その冷酷さは、元より、この一件をそれほど重要なものとは見ていなかったからであろう。彼に言わせれば、こんな案件は大事件とはいえず、言うなれば、ほとんど子供の遊びなのである。大体、警察組織が、こんな小さい一件に、いちいち関わりあっているから、蝙蝠(こうもり)としか思えないような取材のやり方をするマスコミにも、まったく実体のない圧力団体にもなめられてしまうのである。 『この状態が解消するまで、あと何分、何時間かかるのか? あるいは、あと何週間? それが判明するまでは、そういった具体的で抜本的な処置は取れないだろう。この近辺に住む人間の生活を阻害することは、今のところ、我々はしていないのだから』  私の予測では、警察関係者は皆、そういったことを考えていると思われた。彼らは自身によっぽどの危険が迫りくるか、あるいは、上層部からの強力な圧力でもない限り、今にも落ちてきそうな、あの男の身体に触れようとはしないだろう。これは権力(ちから)の無さから来るものではなくて、経験の無さから来る判断である。警察とは自分らが過去に幾度も遭遇した上で、そのときに下したことのある結論しか出せない人種なのである。遺憾ながら、宙に浮いたまま落ちてようとしない人間と遭遇するのは、ここにいる誰もが初めてなのである。  その時点ですでに、外見上はお世辞にも人の良さそうとは表現できない中年の女性ひとりが、我々のすぐ背後に迫っていた。強く訴えたいことがあるような厳しい表情をしていた。これから放たれるであろうその台詞は、決して、この場に集まっている人々にとって、プラスになることとは思えなかった。 「私はねえ、この近くにある賃貸マンションの管理人なんですけどね。こんなに狭い歩道に、これだけ多くの人が集まるのはねえ、正直いって困るんですよ。最近はこの辺りでも物騒な事件が続けざまに起きているから、ただでさえ、住民の皆さまはピリピリしてらっしゃるんです。自分が窃盗や強盗や通り魔の被害に遭うのではないかと、不安に思っていらっしゃるわけです。そこへ来て、公務員の方たちが、自らこのようなバカ騒ぎを引き起こされたら困ります。警察や野次馬の皆さん、今すぐに解散してください」  その老年の女性は不快感をあらわにしながら、そのようなことを述べた。今やここにいる誰もが非日常に接しているわけで、言いたいことはよく分かるのだが、こんな短時間の間に、彼女が住民の意見を集約して来たとはとても思えなかった。『何が起こったかなんてどうでもいい。ただ、あなたたちが気に食わないから、早く解散して欲しい』は、おそらく彼女ひとりの意見であろう。 「おかあさん、申し訳ないんですが、これは緊急事態なんですよ。ひとりの男性がね、ビルから飛び降りたんだけどね、地上に落下する前に、どうやら空間の歪みに引っかかってしまったらしくて、空中で静止してしまったんですよ。ほら、見て、あそこに浮いているでしょ?」  警部は上空に浮いている分厚い背中を指さしてそう言った。 「あらまあ、屋上から飛び降りたのに、まだ地上に落ちてこないの?」 「実はそうなんです。我々も手の施しようのない状態でして。このような騒ぎを起こしてしまい、住民の方々には申し訳ないと思っております……」  しかし、私の予想通り、この老婆は簡単には引き下がらなかった。 「でも……、地上に落下する前に動きが停止したということは、まだ、負傷したことにも、死んだことにもならないんでしょう? だって、結果がまだ出てないんですから……。まだ、何も起きていないのと一緒なんでしょ? だったら、これだけ多くの人を集めるのは、せめて、結果が出てからにしてください。事件解決の見通しもつかないのに、この場所にたむろされるのは困ります」 「それはどうでしょう。ひとりの人間が十数メートルの高さから飛び降りて、未だに落下せず、手品も使わずに空中に浮いているとなりますと、これはひとつの大事件と呼べませんかね? 彼が行っていることは、ここの住民への迷惑行為になり得ませんかね? 我々はそのことについて調査しているんです。万が一、あの小太りが生還した暁には、すぐにでも条例違反で補導する予定でおります」 「じゃあ、あの男が地上まで降りてきたときには、それが生還であれ、最悪の結果であれ、あなた方はきちんと仕事をなさってくれるんですね? それを約束してくれるなら了解しました。今のところは、これで引き上げたいと思います」  その老婆は口惜しそうに、何度も振り返って空中の男性を目を細めて眺めつつ、ゆっくりとした歩調で事務所の方に帰っていった。それを見送ると、警部はふうっと息を吐き出した。 「早く解決案を見出さねばならんな……。このまま時間が経過してしまうと、今みたいに、この区画のあちこちのアパートメントから、住民が苦情を言いにくるぞ……」  彼はため息混じりにそう言うと、すでに五重六重に野次馬の列が出来上がっている後方の大通りを振り返った。今や、道路も歩道も立ち止まって空を見上げる有為無為の野次馬で溢れ返り、乗用車も自転車もまったく通行ができない有り様となっていた。
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