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文学部の扉を開ける。秋野先輩がこちらに向かい、よっ、と手を上げた。スカートが翻る。お疲れ様です、と静かに応じた。他の部員はいない。大抵、俺達二人きり。ソファに座り、鞄からノートパソコンを取り出す。
「お、執筆かい。それとも授業の課題?」
「まずはネットサーフィンです」
「不真面目だねぇ」
開いた画面を先輩が覗き込む。垂れた長い髪をかき上げた。二人でニュース記事をいくつか読む。あ、と先輩が急に声をあげた。
「君の好きな女優の綾継さん、結婚だって。ほら、そこの記事」
「マジっすか。どこですか」
慌てて画面を見回す。しかしそんな記事は無い。先輩を見上げる。形のいい唇が三日月形に歪んだ。
「また騙されたな、田中君」
溜息をつく。先輩のしょうもない嘘や、からかいにいつも引っ掛かってしまう。
「教授と女子学生が三号棟の給湯室で逢瀬を重ねていた。写真も撮ったぞ、これを見ろ」
そんな昼ドラみたいな、と息を飲み画面を覗くと、単純すぎるぞ田中君、と書かれていたことがある。
「購買のビッグどら焼きを買ったぞ」
いつも半分分けてくれるので、その日もありがたく頂戴しようと思っていたら、何をそわそわしている、今日は私が全部食べちゃったぞ、と肩を竦められたこともある。
「駅前のファミレスが本日限り二割引き、って旗を出していた。食べに行こう」
喜んで付いて行ったらそんなサービスはやっていなくて、流石に可哀想だから私が二割分出してあげよう、と微妙に奢られたこともあった。
さっきの綾継さんの結婚記事みたいな小さな騙りは日常茶飯事。一時、疑心暗鬼に陥り先輩の言動全てを疑ってかかったこともある。しかし無駄に疲れるのですぐにやめた。傷付く嘘は無かったし、じゃれ合いのようで最近は心地好さすら感じている。変な性癖が開花し始めた。
「よくもまあ毎日しょうもないことを思い付きますね」
呆れる俺に、先輩は腰へ手を当て胸を張った。
「君をからかうのが私の生き甲斐だからね」
さて、これはツッコむべきだろうか。腕を組んで先輩を見詰める。彼女は姿勢を崩さない。言葉も発しない。俺も黙り込む。時計の秒針が半周した。先輩が小刻みに震え始める。俺はまだ動かない。秒針がじりじりともう半周した時。
「いやツッコんでよ」
先輩が叫んだ。根競べは俺の勝ち。たまにはやり返すのもいいだろう。
「デリケートな話題なので触れていいものか迷いまして。何て言えば良かったでしょうか」
「そりゃあ、いや生き甲斐って先輩、まず生き返って下さいよ、でしょ」
宙に浮遊する秋野先輩には足が無い。俺の胸元にツッコミを入れた手は、そのまま背中へ抜けていく。通過する時、ちょっと冷やっこく感じた。
「それで、まだ生き返れないんですか」
「体はもう治っているはずなんだけどねぇ」
三か月前、先輩は車に撥ねられた。そんなことなど知らない俺は、事故の翌日もいつものように部室を訪れた。扉を開けると寝そべった姿勢で宙を漂う先輩が、よっ、と普段と変わらない挨拶をした。しばし固まった後、俺は腰を抜かした。
「え、先輩、え、あ?」
動揺すると人間は本当に言葉が出て来なくなる。へたり込む俺に、カモン、と手招きをした。何とか這いずり扉を閉める。秋野先輩は昨日と同じ服を着ていた。違うのは、透けているのと足がないこと。
「事故っちった」
舌を出し頭を掻いた。初めて見る仕草。可愛いじゃないか。
「え、先輩、あの、今どういう状況ですか?」
俺の質問には答えず浮遊の高度を上げた。天井に立ちこちらを見下ろす。長い髪が垂れ下がった。事故に遭った時、履いていたのがズボンで良かった。スカートだったらえらいことになっていた。
「こういう状態」
逆さまになった意味はわからないが、取り敢えず髪の毛の先へ手を伸ばす。触れない。通り抜ける。ちょっと冷やっこい。先輩と目が合う。
「死んじゃったんですか?」
突然目の前へ顔が迫った。あおぅ、と俺の口から悲鳴が漏れる。
「失礼な。死んでないよ。死にかけているけど」
まあ生きているのに死んだんですかと訊かれたら腹も立とう。それはそうと顔が近い。
「先輩。まず、座って下さい。俺は今、とても混乱しています。そこにびっくりを挟み込まれたらいよいよパニックを起こします。一つずつ、状況を確認させて下さい」
俺の提案に、いいよ、と先輩は下りて来た。お互い、正座をして向かい合う。どうでもいいけど足が無くても正座は出来るのだな。
「まず、昨日事故に遭ったのですね。車に轢かれたのですか」
「うん」
「理由は?」
「子供を助けた」
俺の目から涙が零れた。自分を犠牲に子供を助けるなんて、騙る以外は本当に善い人だ。だからって、自分が死んでどうする。
「ごめん、嘘」
騙るのがこの人の本当に悪いところだ。おい、とメンチを切る。正座をしたまま先輩が宙に浮き始めた。
「猫を避けたらうっかり轢かれた」
「それも嘘ですね」
そんな粗忽者でないことはよく知っている。何故はぐらかす。俺の目の前を、正座をした先輩の太ももが通過した。座りなさい、と床を指差す。意外と大人しく従った。
「秋野先輩。どうして隠すのですか。覚えているのでしょう、事故に遭った原因。俺がどれだけ心配しているかわかっていますか。騙ってないで、きちんと正直に白状なさい」
「白状て」
その言葉には答えない。黙って待つ。ちょっとでも先輩が浮こうとしたら、人差し指を下に向けた。沈黙が続く。耳が痛い。足が痺れてきた。それでも俺は動かない。
「わかったよ」
ようやく先輩が話し始めた。頭を掻き俺から目線を逸らす。
「酔っ払いにさ。いきなり後ろから背中をぶっ叩かれたの。なあ姉ちゃん、って聞こえた。よろめいたのはせいぜい一歩か二歩。でも運の悪いことに、その先には側溝があって思いっ切り蹴っ躓いた。そのまま車道へどーん。車がばこーん。私、ひゅーん。どさっ。この状態になってから現場を見に行ったら、側溝の蓋にでかい石が挟まっていた。誰かがいたずらしたんだろうな。そういうわけで、私の体は今死にかけている。ここにいる私は幽霊というか、生霊だ。体が死んだらどうなるのかはわからん。無事に蘇生したら私も体に戻るだろう。現場からは以上です」
えらく軽妙な語り口だったが、これは、これは同情していいんだよな。まさか、珍妙な偶然の連続で事故に遭ったのが恥ずかしくて、いじってもらえるように、蹴っ躓いただのどーんばこーんだの言っているのか。いじれるか、生死の境にいる人を。そして、それこそ死にかけているのに何でこの人はこんなにも冷静なのだ。欠片も取り乱してないけど、どういう精神力をしている。もっと嘆いたり、焦ったりしろよ。酔っぱらいと石を蓋に仕込んだ奴に腹を立てるとかあるだろう。
質問が渋滞してどこから切り出せばいいかわからない。先輩はまたもふよふよと浮いている。
「随分慣れてますね、浮遊」
「君も死んだら自然と出来るよ。まだ私も死んでいないけど。死なないように祈っていて」
「そりゃ勿論祈りますけど」
その時、珍しくノックの音が響いた。部員の誰かが来たのか。
「お、今日に限って人が来るか。田中君みたいに生霊の私を見える奴かもしれん。生身のふりをするとしよう」
何故か心情を全部説明した先輩が、床に座りあぐらをかく。消えた足を隠すためか。俺に向かい親指を立てる。どうぞ、と扉へ呼びかけた。
「おひさ」
そこには同学年の山井がいた。おう、と応える。先輩も無言で手を上げた。えらく眉を顰めている。以前、先輩が気付かず苦手な椎茸を食べた時も同じ顔をしていた。緊張でもしているのか。
「久し振りに来たなぁ、部室」
山井は呑気に部室を見回した。その目に先輩は映っているのか。どっちだ。
「今日はどしたん」
「部誌を借りに来たの。前に持って帰った分は読み終わっちゃってね。それにしても相変わらず田中は部室が好きだな。一人で何をやっているの」
先輩がガッツポーズを作った。自分の姿が見えなくて喜ぶって、逆じゃないか。私のことが見えないの、って寂しかったり悲しかったりするのではないのか。
「ネットサーフィンとか、課題やったり部誌用に作品を書いてみたり」
「真面目か。そういえば秋野先輩はいないの? あんたと一緒に入り浸っていたでしょ」
お探しの相手はお前の後ろに浮かんでいて、手足を思いっ切り広げているよ。ご丁寧に頭の位置を合わせているので、山井の肩から腕が、腰から足が二本ずつ追加で生えたように見える。解剖図だっけ、あんな絵があったな。全力でふざけやがって。こっちは吹き出すわけにいかないんだぞ。
「今日は来ていないな。基本的には毎日いるんだけど」
ふぅん、と生返事をする山井のおでこから手が飛び出た。後頭部から貫通した先輩の手だ。生霊になって初日なのに自分の特性をしっかり把握している。それを全力でおふざけに使うんじゃない。
「おい田中君。相変わらず山井ちゃんのここ、でっけぇな」
やめろ、指差すな。下品だぞ。
「ねえ田中。秋野先輩とはどうなの」
バカみたいな俺達に、でっけぇ山井がいきなり爆弾を投げつけた。
「は?」
「どうって?」
「ん? 今、変な声が聞こえなかった?」
山井が振り返る。俺が、どうって、と言う前に先輩が結構デカイ声で、は? と反応してしまった。聞こえたわけではないと思うが、一抹の不安が過ぎる。
「変な声って何だよ」
努めて冷静にやり過ごす。先輩は自分の口元を押さえて俺の後ろへ舞い降りた。そう、そこで大人しくしていなさい。
「いや、気のせいか。で、どうなのよ。先輩と毎日一緒にいるんでしょ。浮いた話の一つもないの」
先輩は確かに宙に浮いていた。下らない事を考え笑いを堪える。先輩が大人しくなったのに俺が俺を追い込んでどうする。
「無いね。喋って飯食いに行ってたまに課題を一緒にやって、それだけ」
「仲良いじゃん。付き合えばいいのに」
考えられる限り最悪の話題を振ってきやがった。まず、山井は知る由もないが先輩も今ここで話を聞いている。次に、俺は先輩のことが大好きであるが、これが恋なのか友愛なのかわかっていない。非常に繊細な問題なのだ。そして俺がこれから返す答えもまた、先輩に聞かれる。先輩が俺をどう想っているかは知らない。わかるのは、俺の答えが先輩を喜ばせたり恥ずかしがらせたり怒らせたり傷付けたり、ありとあらゆる可能性を孕んでいるということ。慎重に、無難な言葉を選ばなければ。
「一緒に、いると、楽しい。付き合えたら、きっと、嬉しい。でも、もし、付き合って、別れるような、ことが、あれば、先輩と、一緒に、いられなく、なる。だから、俺は、今の、関係が、好き」
伸び切ったオルゴールのように発言する。うわぁ、と山井は顔を顰めた。
「あんたの感情、重っ」
「うるさい」
「まあ、そうか。余計なお世話だったね。じゃ、帰るわ。お疲れ」
空気と言葉を散らかすだけ散らかして、山井は背を向けた。お疲れ、と返事をする。
「ばいばい山井ちゃん」
先輩が急に声をかけた。聞こえたらどうするつもりだ。しかし山井は振り返ることなく去って行った。先輩の声は聞こえない、という認識で良さそうだ。今のは実験だったのか。
ゆっくりと後ろを向く。先輩は顔を背けた。俺も猛烈に恥ずかしいので何も言えない。おのれ山井め。お前に霊感があればこんなことにはならなかった。いや、俺にもそんなものは無い。なのに、何故生霊になった先輩といつも通りやり取りが出来るのか。
「よし。私は死にかけて病院にいるから今ここで何も聞かなかった。そういうことで、よろしく」
唐突に先輩が宣言した。そうしましょう、と相槌を打つ。一方で残念にも感じた。先輩が俺をどう思っているのか、もしかしたら教えてくれるかもしれない。ちょっとだけ、期待していた。だが聞いたところで先輩がこのまま死んでしまってはあまりに切ない。早く復活して、その内教えて下さい。胸中で先輩に手を合わせた。
あれから三ヶ月。先輩の体は無事に山場を越え、傷もほとんど治ったそうだ。自分のお見舞いに行った先輩が教えてくれた。
「全然動いてないからリハビリは必要になるらしいんだけどね。あとは意識が戻るだけなのにってお医者さんも困惑していたよ」
原因はこの生霊の先輩である。こちらが体に戻れば解決するはずだ。先輩自身も戻れるか試しはした。霊体を肉体に重ねてじっと待ったり、脳を百回すり抜けたり、ただいまと叫びながら体へダイブしたり、とにかく思いつくまま模索した。その日は俺も病室に連れて行かれたので、先輩が足掻く様を間近で見物した。傍から見ればベッドに横たわる女性を黙ってひたすら見詰め続けるヤバイ男だったに違いない。
「駄目だ。わからん。その内戻るだろ」
先輩の挑戦は半日で終わった。呑気というか、死生観が淡白でちょっと怖かった。結果、今日も俺達は部室で二人の日常を過ごしている。俺が先輩に騙られ、時折やり返す日々。先輩が生霊な以外はいかにも大学生らしい時間の使い方だと思う。
「しかし本当に何で戻らないのかねぇ。このままの状態が何十年も続いて、老衰で死んだら笑い話にならん」
「今、生き返ったら笑い話になりますか」
「あんな事故に遭ったのに生きてて良かったねっていずれ笑える。それに多分だけど生霊だった時の記憶も無くならないから、貴重な経験、楽しいこと、いっぱい出来たなって思い返して絶対に笑う」
俺も四六時中先輩と一緒にいるわけではない。この状態になってからは部室で会って部室で別れている。外で先輩と話すわけにはいかないし、家まで付いてこられても風呂を覗かれやしないかと落ち着かない。まあ俺の裸なんぞに興味は無いだろうけど。
「俺がいない時、先輩は何をしているのですか」
質問に指を折りつつ答える。
「運動部員の着替えを覗く。いいよな、鍛えられた若く瑞々しい肉体。たまんねぇな」
「知らん」
「幽霊ごっこをやる。大学や街角、墓場に公園。ただ立っているだけだけど、結構面白い。たまに私が見えちゃう人がいるけど、そういう人って全然リアクションをしないの。でもこっちは見られてるってわかる。見えない人は私に焦点が合わないけど、見える人は合うから」
「俺以外にも先輩を見える人はいるのですね」
「流石に会話はしないけど。あとは遊覧飛行に美術館への無断侵入、映画の無銭鑑賞、マニアックな店の見物とか」
「滅茶苦茶満喫してるな」
思わずツッコむ。いやあ、と頭を掻いた。褒めてない。だが何となく、生き返らない原因がわかった。
「先輩。多分、生霊の状態を楽しんでいるから戻れないんだと思いますよ」
俺の仮説に、え、と表情が無くなる。
「先輩自身が体に戻りたがっていないというか、このままの方が楽しいなぁって感じているから体に戻らないんです。戻れないんじゃなくて戻らない」
「そう言われれば少し心当たりが。いや多少、ううん物凄く、思い当たる節がある」
「或いは体側も、そんなに楽しいんだったらもう帰って来なくていいわよ、と拒否しているのかも」
「そんな、ぶち切れたお母さんみたいな」
溜息をつく。戻らないなぁとぼやきながら生霊生活を満喫しているなんて、まったく。
「先輩は、生霊のままがいいのですか」
俺の言葉に首を傾げる。出来れば悩まないで欲しかった。しばらく唸っていたが、やがて顔を上げた。
「楽しいよ、生霊生活は。でももし田中君が私を見えなければ、話せなければ、寂しくてすぐ体に戻っていたかもしれない」
なるほど。確かに俺が意思の疎通を図れなければ先輩は一人ぼっちだった。それならここまで楽しむ余裕も無かっただろう。
「何か、すみません」
それには答えず、俺の目の前に顔を寄せた。何の匂いもしない。体があった時にはいい香りが周囲に漂っていた。その変化は、触れないこと、宙に浮いていること、足が無いことなどを差し置いて、先輩が幽体であると一番俺に実感させた。
「君は私に生き返って欲しい?」
「俺に訊いてどうするんですか。貴女の死生観で決めなさいよ」
「いいから答えて」
返事は決まっている。当然だ。
「早く生き返って」
「何故」
「ビッグどら焼きを半分こしてくれる人がいない」
至近距離で見詰め合う。吐息がかかることは無い。流れる髪が俺に被さることも無い。先輩が着替えることも、髪型を変えることも、新しい香水をつけてくることも、何も無い。世界は刻一刻と変わるのに、貴女だけはそのままだ。昨日も、今日も、明日も一緒。
そんなの、寂しいじゃないですか。
「楽しいのなら好きにすればいいですが、俺はとっとと生き返ってもらって生身の貴女と並んで歩きたいですよ」
先輩がゆっくりと離れる。そうか、と頬を掻いた。その時、違和感を覚えた。先輩、と目を細める。
「体の透け具合が酷くなっていませんか」
先輩が自分の手を見た。本当だ、と目を見開く。
「何だこれは。どんどん向こう側がよく見えるようになっていくぞ。おい、どうなっている。説明しろ」
「いや逆でしょ。どういう状況なのか教えて下さい」
「知らん。あ、でもわかる。まずい。これはまずいぞ」
「まずいって、何が」
「嫌だ。まだ逝きたくない。ごめんなさい。ねえ、待って。お願い。田中君、助け」
生霊は、消えた。先輩、と虚空に呼びかける。
「先輩。先輩」
無音が返事をした。吐き気が急にこみ上げる。腹に力を入れて堪えた。時計を見る。面会時間にはまだ間に合う。鞄を掴み部室を飛び出した。違う。先輩はあの世へ逝ったわけじゃない。だって体は生きている。きっと戻ったんだ。そうに違いない。必死で自分に言い聞かせる。しかし先輩が消える間際に残した言葉が俺に絶望を与えていた。息が上がる。足が痛む。それでも走る。早く。早く。一瞬でも早く、先輩の元へ。
電車とバスを乗り継ぎ、ようやく先輩のいる病院へ辿り着いた。受付を済ませ階段を駆け上がる。肩で息をしながら病室をノックした。返事は無い。構わず開ける。どうか、どうか。お願い。
「よっ」
ベッドに横たわった先輩が、いつもと同じ挨拶をした。
「また騙されたな田中君。びっくりしたかい」
硬直する。元気じゃん。どういうこと。酸欠気味の頭を必死に回転させる。そうか。この先輩は、このバカ野郎は、自分の生死すら俺を騙るネタに使ったのだ。ただ体に戻るだけなのに、逝ってしまうように見せかけて俺を騙したのだ。理解すると同時に火山のような怒りが噴出した。俺がどれだけ心配したか。涙を堪えるのにどれほど苦労したか。わかっていない。今回は流石に度を越している。一発ぶん殴らなければ気が済まない。大股でベッドへ近寄る。先輩が俺を見上げた。勢い良く手を振り上げ、思い切り抱き締めた。先輩は動かない。
「リハビリが終わったら抱き締め返してあげる。だから今は君に任せるよ」
「とっとと生き返らないから動けなくなるんですよ。このスカポンタン」
「君は悪口まで素直だね。そんなんだから私に騙されるのさ」
「うるさいですよ。まったく、口だけはよく動くんだから」
少し離れて先輩の目を見詰める。吐息がかからないよう、ちょっと顔を傾けた。
「おはようございます。先輩」
先輩が震えながら、ゆっくりと俺の両頬に手を添えた。弱々しく引き寄せられる。吐息を止め、くっつき、離れ、放心した俺に秋野先輩は微笑みかけた。
「今のは騙りじゃないからね」
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