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失踪
「……分かりました。これからどうぞ宜しくお願いします。私、色々不慣れな事もあると思いますが、お互い譲歩して良いお付き合いをしていけたらと思います」
「……良かった」
修吾は安堵して笑い、ギュッと鞠花を抱き締めてきた。
鞠花もおずおずと修吾を抱き返し、照れながらチュッと彼にキスをする。
二人は幸せそうに頬を緩めて見つめ合っていたが、不意に修吾が、気まずそうに打ち明けてきた。
「実は……。こんなんなってるんだけど……」
言いながら彼が夏用の羽根布団をめくると、そこにはギンッと臨戦態勢になったモノがある。
「!」
「……もう一回、していい? 俺、割と性欲の強いほうで……」
「……も、もぉ……。……い、いいですけど……」
今までの彼氏は、修吾のように二回目を望んだ事はなかった。
(これも慣れないと……)
恥ずかしいながらも、女としての自分を求めてもらえるのは嬉しく、鞠花は再び押し倒されたのち、修吾のキスを受け入れた。
**
祥吾は生まれて初めて、身も心も満たされた幸せを感じていた。
鞠花は最高の女だ。
質素で真面目な性格で、決してつけ上がらない。
高級店でのマナーなどを教えると、すぐに吸収して身につけてゆく。
時に〝予習〟をしたのか、ネットで自分の知らないマナーを見つけると祥吾に「これはどういう場合に用いられますか?」と尋ねてくるほどの勤勉さで頭が下がる。
今まで側にいた女たちは、どこに行こうが祥吾の機嫌さえ取れていればいいという態度だった。
だが鞠花は食事一つするにも、レストランやシェフ、スタッフへの敬意を欠かさない。
祥吾が今まで店に対して横暴な客であった事はないが、鞠花の姿勢を見て学ばされるものは多々あった。
勿論、祥吾は鞠花との結婚も考えている。
祥吾は由緒正しい家柄の生まれで、親には今まで何度も縁談の話をされた。
だが祥吾は「女なんてどうせどれも同じ」という態度を貫き、見合いが良い結果になる事はなかった。
それを何度も繰り返すうちに、両親も嘆きながらも諦め始める様子を見せ始めていた。
けれどいまだ縁談をチラつかせ、祥吾の女性関係を気にする素振りを見せている。
なので「きちんと結婚して孫の顔が見られるなら、相手は誰でもいい」と思っているに違いない。
これを狙っていた訳ではないが、今なら鞠花を紹介しても両親は了承してくれるのでは、と思っていた。
鞠花は一般家庭の生まれで両親が他界しているが、今まで祥吾が付き合ったどの女性より、理知的で聡明な人だ。
祥吾の母は金持ちのお嬢様だが、価値観などはまともな人だと思う。
母が今まで祥吾の付き合っていた女性たちを見て、いい顔をしなかったのも頷ける。
逆にこれまでの事を踏まえると、鞠花を紹介すれば気に入ってくれるのではと期待していた。
「これでやっと、俺も人並みに幸せになれるのかな……」
ハイボールのグラスを傾け、祥吾はリビングのカウチソファに座ったままニヤつく。
この年齢になると、友人たちの間で「子供ができた」という知らせが次々に舞い込む。
周りには祥吾と似た考え方をする独身の友人がいるので、焦ってはいない。
けれど表向き「いい家庭を築けよ」と祝福して、「俺らはまだまだだな」と笑っていても、本心では隣の芝生を青く感じるものだ。
自分には愛のある幸せな結婚は遠いと思っていたからこそ、いま彼は鞠花の存在に大きな期待を抱かせていた。
「……そう言えば、本名を教えてなかったっけ」
不意に思い出したが、名前ぐらい「いずれ教えればいいか」と軽く考えていた。
本名を教えなかったのは、自分が大企業の社長だと知って警戒させないための予防策だった。
だが彼女との付き合いを重ね、その杞憂はなくなった。
だから名前について、祥吾自身は何の問題も感じていなかった。
**
台所で洗い物をしながらテレビを見ていた鞠花は、日曜朝の番組で大物MCが日本経済について考えるという、少し硬い番組を流しっぱなしにしていた。
見ようと思っていたのではなく、流れていたのだ。
だが、聞き覚えのある声がしたと思いテレビを見て、彼女の手から皿が落ちてシンクの中で大きな音を立てた。
目をまん丸にして固まっている鞠花の視線の先に、修吾が映っている。
間違いなく、〝彼〟だと分かった。
声だって同じだし、体型や髪のセットの仕方も、いつも見ている〝彼〟のものだ。
けれど番組進行の女性アナウンサーが「鳳祥吾さん」と名前を呼んだのを聞いて、〝彼〟と同一人物だと理解できず固まっていたのだ。
テレビの中の彼は、『かなえ銀行』の代表取締役社長として発言している。
『かなえ』銀行と言えば大手も大手で、グループを経営している鳳一族は日本三名家に数えられる家柄だ。
そして――。
鞠花はすべてを理解したあと、うつろな目でベッドの枕元にある家族写真を見る。
「……お父さん、お母さん……」
手に洗剤の泡がついたまま、鞠花はズルズルと台所に座り込み、涙を流す。
しばし一人で鞠花にしか分からない痛みを味わったあと、彼女は瞳に暗い炎を燃やして決意を固めた。
**
幸せから一転、祥吾は荒れていた。
突如として鞠花と連絡がつかなくなったのだ。
電話をしても通じない。
メッセージアプリで連絡をしようとしても、アカウントがない。
電話番号を変えたか、スマホ自体を変えて祥吾に教えてくれていないと思うと、「どうして!」という思いが荒れ狂う。
彼女の住まいに向かったが、手当てをしてもらったあのこぢんまりとした部屋は、もぬけの空になっていた。
彼女が勤務しているという、そこから徒歩すぐの病院の受付で尋ねても、個人情報は教えてくれない。
忽然と姿を消した鞠花に対し、祥吾はなす術もなく、連日酒を飲むしか解消法を見つけられなかった。
鞠花が自分を捨てたなら、元のように自分もクズとして女を抱きまくってやると一瞬考えたが、どうしても彼女への未練がある。
心の底から改心して鞠花との未来を考えたからこそ、祥吾は「清く過ごしていれば、鞠花が戻ってくれるのでは」と思っていた。
それはまるで、母親を見失った幼い子供のようだった。
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