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見舞いに来た彼女
「あなたの言う事なら何でも聞いたのに! 私はただの性処理係だったの? いつか他のくだらない女に愛想を尽かしたあと、私の良さに気付いてくれると思っていたのに! そうしたら、あんなつまらない夫なんて捨ててあなたの妻になったのに!」
刺された所が焼けつくように熱い。
――いや、刃の冷たさが肉に伝わって、そこからゾクゾクと寒気が伝わってきている気もする。
(ここで……死ぬのか……?)
激痛で動けないなか、東がギャアギャアと何かを喚いているのが聞こえるが、祥吾はほとんど理解していない。
最後に東は「死ね!!」と叫んで部屋を出て行った。
少ししてから玄関のドアが閉まる音がし、彼女が去って行ったのが分かる。
そしてシン……と静寂が訪れた。
傷に響かないようにごく浅く呼吸をしても、刺された部分はズキズキと痛んだ。
『もしも誰かに刺された時は、凶器を抜いてはいけませんからね。余計に血が出てしまいます』
こんな時になって、鞠花の言葉を思い出した。
自分が大勢の人の恨みを買っていると話した時、「いつか刺されるかもしれない」と冗談交じりに言った。
すると鞠花は真剣な顔で、そう言ってきたのだ。
実に、看護師の彼女らしい。
(……このまま、死んじまってもいいのかもな……)
鞠花に見放された今、生きている意味を見失った。
今は享楽的に過ごしていた日々に、戻ろうとすら思わない。
本当に欲しいもの――鞠花を知ってしまった以上、彼女が手に入らないなら死んでしまってもいいのでは……とすべてを捨てかけた。
――と、鞠花の別の言葉も思い出す。
『私、命を軽んじる人は嫌いです。それは命の重みを分かっていない人の、贅沢病ですから』
遠くを睨んで頑なに言った彼女は、今思えば心に何かしらの傷を負っていたのだろう。
恐らく、亡くなった両親に関わる何かを……。
当時の祥吾は、鞠花と二人で話していられるのが嬉しくて、彼女自身から深い話を聞こうという思考回路にならなかった。
(……ここで投げ出したら、……鞠花に会えない。……どうして消えたのか、理由も聞けない。『贅沢病』と思われたまま、終わりたくない)
彼女の言葉を思い出したからか、祥吾の目にグッと力が入る。
結婚したいと思っていた割に一方的に彼女に入れ込み、あまり鞠花の話を聞かなかった気がする。
彼女の両親がどうして亡くなったのかとか、現在看護師をするようになるまで、どう過ごしたのかとか、大切な事を見落としていた。
(もしかしたら、それで嫌気が差して離れたのかもしれない。……次は、失敗しないから……っ)
「ぐぅ……っ」
激痛に低く呻きながら、祥吾は手を伸ばして枕元にあるスマホを取った。
そして震える指で、〝119〟を押した。
**
某所。
馴染み始めた家で一人食事を取っていた鞠花は、ニュース速報を見て箸を止めた。
『かなえ銀行代表取締役社長・鳳祥吾氏が何者かに刺され重体』
「…………」
鞠花はキュッと唇を引き結び、茶碗と箸をテーブルの上に置いて息をつく。
「……刺されると思った」
呟いて、また溜め息をつく。
そのまましばらく、目の前の空間を見つめる。
やがて緊急ニュースでキャスターが事件を伝えるのを聞いて、大きく息を吸って止め、吐き出すと共に呟いた。
「…………馬鹿……」
鞠花は何かを堪えるように目を閉じ、クシャリと髪をかき回した。
**
マンションの管理人によって部屋のドアが開けられ、祥吾は救急隊員たちによって病院に運ばれた。
すぐに手術するための準備が始められ、必要な検査が行われたあと彼は手術室に入る。
しばらく安定するまで集中治療室に寝かされ、意識が回復したあとはホテルのような個室に移された。
両親が顔を見に来て、母が祥吾の無事を確認して泣いた。
警察も来て、祥吾は包み隠さず東に刺された事を伝えた。
刺される経緯についても、自分がクズであった事を誤魔化さずすべてを話した。
その上で祥吾は顧問弁護士に連絡を取り、また警察に個室の警備をしてもらった。
彼女が訪れたのは、修吾が個室に入って四日経った時だ。
看護師が部屋を訪れ、「西城さんという方が面会を求めているのですが、どうしますか?」と尋ねてきた。
「!!」
――鞠花だ!
――彼女が心配して、来てくれたに違いない!
暗鬱とした毎日を送っていた祥吾の目の前が、急にパァッと開けた気がした。
「通してください」
「分かりました」
凶器は臓器を損傷するに至っておらず、ごく浅い場所の傷で済んでいた。
恐らく東も感情が高ぶるあまり、どこをどう刺せば確実に殺せるなど考えていなかったのだろう。
だから祥吾は、刺された当初に予想したより、ずっと早く回復していた。
祥吾はリモコンでベッドを起こし、座った状態で鞠花を待つ。
やがて部屋の外で警官と誰かが話す声が聞こえ、横開きのドアが開かれた。
「……鞠花……!」
部屋に入ってきたのは、茶色いダッフルコートを着た鞠花だ。
髪は下ろしたままで、耳にイヤーマフをしている。
祥吾は胸の高鳴りを抑えきれず、久しぶりに彼女に会えた喜びで笑みを零す。
鞠花はイヤーマフを外し、ヒールの低いブーツで歩み寄って来る。
そしてジッと祥吾を見つめてきた。
「鞠花……」
祥吾は手を伸ばし、彼女の手を握ろうとする。
だが鞠花はギリギリ手の届かない場所に立ち、しばらく祥吾を見つめていた。
その表情に、笑みはない。
けれど浮かれた祥吾は、彼女の様子に気づけていなかった。
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