西城鞠花

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西城鞠花

 ――かと思うと、直後に防犯ブザーがつんざくような音を立てた。  ハッとして見れば、一人の女性が離れた所からこちらを見ている。  ジョギングをしていたらしく、Tシャツにスパッツ、その上に短パンを穿き、頭部にはキャップを被っている。  彼女の首元には、外国人観光客がよく下げている緊急ホイッスルがある。  その手には、アクセサリーを模した防犯ブザーがあった 「警察を呼びますよ!」  さらに女性は声を張り上げ、スマホを取りだした。  黒ずくめの犯人は舌打ちをし、その場から走って逃げていった。  死ぬかもしれなかった一瞬に胸がドキドキし、祥吾は近くにあった植え込みのブロックに座り込む。 「大丈夫ですか?」  そんな祥吾に女性が声を掛け、駆け寄ってきた。  ノロノロと顔を上げて彼女を見れば、年齢は二十代半ばだ。  あれだけの毅然とした態度を取れたのに、こんなにも若くて少し驚く。  顔は整っているが、印象としては普通だ。  細身なのにTシャツの胸元が大きく盛り上がり存在を誇示しているのを見てしまうのは、祥吾の悲しい性だ。 (磨いたら化けるタイプだな)  ぼんやりそんな事を思いつつ、祥吾は女性に礼を言う。 「ありがとうございました。命の恩人です。……ってぇ……」  重傷ではないとはいえ、胸元や二の腕からは血が出ている。  滅多に味わわない痛みに、思わず情けない声を漏らした時、女性が顔を近付け傷の具合を見てきた。 「私、看護師です。今は日勤前にジョギングをしていました。救急車、呼びますか?」 「いや、そんな大した傷じゃないので」  短く答えると、女性は少し迷ったあとに提案した。 「私の家、近くにあるんですが来ますか? 応急処置ぐらいならできます。幸い大して深い傷でもないみたいだし」 (……けど、改めて近くで見るといい女だな)  大きな目や長い睫毛、すんなりした鼻筋に形のいい唇。  最初に「目立たない」と思ったのは、普段彼がばっちりメイクをしている女性に囲まれているからだ。  だからこそ、彼女がきちんと化粧をしたら清楚きれいめな美人になると、すぐに考え直した。 「ですが、迷惑を掛けてしまいます」  女性の申し出をありがたいと思いつつ、祥吾は一旦は引いてみる。 「いつ犯人が思い直して戻ってくるか分かりませんよ。その前にタクシーで姿を消して、傷の手当てをして警察に通報する方がいいです」  犯罪現場に居合わせたのに、やけに冷静な彼女を頼もしいなと思ったが、看護師だというので肝が据わっているのかもしれない。 「……じゃあ、お言葉に甘えます」 「ええ。素直さは美徳ですよ」  微笑んだ女性の表情を見て、祥吾は「ああ、笑ったら可愛いな」と思っていた。 **  女性はタクシーを拾い、向かったのは麻布十番駅すぐ近くの賃貸マンションの二階だ。  すぐ近くには病院があり、そこに勤務しているのかと察した。 「狭くてごめんなさい」  1Kの部屋に上がり込むと、ベッドにテレビ、ローテーブルなど家具が集まっているが、綺麗に整頓されていた。 「そこに座っていてください。いま手当てしますから」 「ありがとうございます」  二人掛けの座椅子ソファーに腰掛け、祥吾は何とはなしに室内を見る。  物があって生活感はあるが、整頓されているのでちらかっている印象はない。  ちょっとした所に可愛らしい置物などがあり、女性らしさを感じる。  窓辺にシングルベッドがあり、その枕元の棚には読みかけらしい小説と共に、家族写真がおかれてあった。 (地方から出て来たのかな)  ぼんやりそんな事を考えていると、彼女に声を掛けられる。 「患部を見ますので、Tシャツを脱いでくれますか?」 「あ、はい」  帰宅と共に女性がクーラーのスイッチを入れたので、早朝でもモワッと暑く感じていたが快適さを得る。  ジョギングの帰りに合わせて米を炊いていたのか、室内ではいい匂いが漂っていた。 (着替えを買わないと駄目だな)  切り裂かれたTシャツなど着ていられない。  とはいえ、着替えを買うまではこれを着ていなければいけない訳だが……。  そのような事を考えながらTシャツを脱いだ祥吾の前に、女性が膝をつき、しげしげと患部を見てくる。  彼女の手元には救急セットがあり、その中から真新しいガーゼを取り出すと祥吾の傷口に押し当てた。 「痛むかもしれませんが、少し我慢してください」 「大丈夫です」  患部を圧迫され、多少の痛みは感じるものの、我慢できないほどではない。 「……お名前を聞いてもいいですか?」  その間に恩人になる彼女の名前を尋ねると、「ああ」と失念していたというように彼女は瞠目する。 「私は西城鞠花(さいじょうまりか)と言います。この近くの病院で勤務している看護師です」 「俺は……」  名乗ろうと思って、祥吾は一瞬言い淀む。  自分はある程度、名のある人物だと自負している。  ここで本名を名乗ってしまっては、せっかく恩人と思った彼女に余計なフィルターを与え、心からの付き合いができないと思った。 「……修吾(しゅうご)……です」  本名を少しだけ変えた名を名乗ると、鞠花は疑わず「そうですか」と笑った。 「災難でしたね。何か心当たりはありますか? 手当てをしたらすぐ警察に通報したほうがいいです」 「いや……、心当たりは……」  そのあとに「ありすぎて分かりません」と続くのを、祥吾は呑み込む。  もしそんな事を言えば、自分がトラブルメーカーだと白状するのと同義だ。  せっかく助けてもらって人心地ついたのに、放り出されてまた通り魔に鉢合っては困る。 「スマホはありますか? それとも私から通報しますか?」  鞠花にジッと見つめられ、祥吾は彼女が本気で自分を心配してくれているのだと理解し、神妙な顔になる。 (そう言えば、こんな風に本気で心配された事なんて、なかった気がするな)  祥吾は王様だ。  仕事さえきちんとこなせば、他は少し逸脱した面があっても、ほとんどの者は許してしまう。  友人からは「そのうち刺されるんじゃないか? 気を付けろよ」と笑い半分に言われていたが、さして真剣に考えていなかった。
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