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……悪くない
「たとえ通り魔が怖くても、泣き寝入りする必要はないと思います」
なよやかな印象からは想像できないほど、鞠花は凛とした雰囲気で言い放つ。
その後彼女は祥吾の傷口を消毒したあと、大判の治癒パッドを貼ってくれた。
「応急処置ですので、もしあとからどうしても痛くて気になる時は、必ず病院に行ってください」
「分かりました。それで通報の件ですが、俺にも仕事があるので、事情聴衆などで時間を取られると困るんです。なので不審者がいたという第三者の通報で済ませたいと思います」
「そうですか。被害者である修吾さんが仰るなら、私は何も言いませんが……」
その時、電子音が鳴って米が炊けた事を知らせた。
タイミングが合ったかのように、修吾の腹が鳴る。
情けない音を聞いて、鞠花は相好を崩した。
(やっぱり笑うと可愛いな)
思わず笑い返した祥吾に、鞠花が提案してくる。
「もし良かったら、何かのご縁ですし食べていきませんか? 簡単なものしか出せませんが」
何ともタイミング良く腹が鳴って恥ずかしいが、興味を持った彼女ともう少し過ごせるのなら、いい口実だ。
「いいんですか?」
「ええ」
微笑んだあと、鞠花は小さな台所に立って、手早く朝食の準備を始めた。
炊飯器の白米を混ぜたあと、味噌汁を作り、ぬか床に漬けていた茄子を取り出し、切る。
「塩鮭を焼いている間、汗を流してきます。すみません」
塩鮭を二枚グリルにセットしたあと、彼女はアコーディオンドアの向こうに消えた。
衣擦れの音が聞こえたあと、すぐに水音が聞こえてくる。
祥吾はクーラーの心地いい風を浴びながら、座椅子ソファにもたれ目を閉じた。
こんな小さく狭い、生活感の溢れた部屋なのに、なぜだか安心する。
自分はこんな空間など知らないのに、なぜだか「懐かしい」という感覚すら味わっていた。
窓の向こうから、車の走行音が聞こえる。
(あぁ、そうか。大学生時代に入り浸ってた、先輩のアパートに似てるんだ)
自分の心の奥底にあるノスタルジックな感覚の正体を知り、祥吾は薄く笑う。
あの頃は何もかも自由で、楽しかった記憶しかない。
当時からヤンチャ――と言えば一部の人は怒るかもしれない事はしていたが、社会人としての地位を得る前だったので、無責任に色々な事ができた。
クラブで音に酔い、朝まで飲んで相手が誰か分からないのに、複数人とセックスした。
勧められるがままに、好奇心で〝気持ち良くなる葉っぱ〟を吸った事もあった。
あの頃から決まった彼女はおらず、自分を巡って女性たちが勝手に争うのを、楽しく見ていた。
友達の彼女を寝取った事もあったし、年上のOLのマンションにも入り浸っていた。
『君、いつまでもこんな生活してたら、まともな人間になれないよ』
セックスしたあとに言った彼女も、上司と不倫していたのだからお互い様だ。
――あの時彼女が吸っていた煙草の銘柄は……。
そこまで考えた時、鞠花がシャワーを浴び終えてアコーディオンドアを開けた。
「すみません、お待たせしました。本来、初対面の男性の前でシャワーなんて入るものじゃないですが、ジョギングをしていたので……。私もすぐ、ご飯を食べたあと出勤する準備をしなければなりませんし」
真面目な表情ながらも、やや恥じらって言い訳をする彼女がどこかおかしい。
「いえ、お気にせず。世話になってるのはこっちですから」
グリルにセットしていた魚は十五分少しで焼け、彼女はその間にあっという間にシャワーを浴び終えた。
髪をバスタオルで包んだまま、彼女は塩鮭を皿に取ると、祥吾の前に白米を盛った茶碗などを並べていく。
「ご飯、これぐらいでいいですか?」
自分が食べるより、少し多いぐらいと考えたのだろうか。
そうやって気遣われるのも慣れていなくて、どこかこそばゆい。
「ええ、ありがとうございます」
「先に食べていてください。私、髪を乾かしたらコンビニまでTシャツを買いに行きます」
「あっ、すみません! 自分で買いますから大丈夫です」
「どうか任せてください。上半身裸の男性がうろついたらそれこそ通報案件ですよ?」
言われてそれもそうだと思い、厚意に甘える事にした。
鞠花はドライヤーで髪を乾かし、仕事用なのか髪をきっちりまとめたあと、Tシャツにショートパンツというラフな格好で出て行った。
(……食べるか)
せっかく作ってくれたのだし、と思い、祥吾は割り箸を手にする。
味噌汁を一口飲むと、料亭や寿司屋のように特別美味しい訳ではないが、「不味くない」と思う味だった。
具は絹ごし豆腐にワカメが入っていて、豆腐の大きさはやや小さめ。
焼き物の小鉢に残り物らしい煮物も入っていた。
米は祥吾がいつも食べている最上級の物ではないが、それでも炊きたてだからか「美味い」と思える。
「……悪くない」
呟いた祥吾は、上半身裸のまま初対面の女の手料理を食べる。
本来彼は、女性の手料理は食べない主義だ。
女性というのは「男の胃袋を掴めばこっちのもの」という言説を信じている。
大して魅力のない女性が「手料理ご馳走してあげる」と自信満々に言う姿を見ると、「絶対に食べてやるもんか」という気持ちになる。
世界中の名だたるレストランで舌の肥えた自分が、素人の料理で満足などできるはずがないのだ。
今だって祥吾の家には、プロの家政婦が通っている。
その家政婦は星付きレストランで働いていた経歴があり、現在は結婚して子育てをする傍ら働けるようにと、シェフに復帰せず家政婦をしている。
家庭料理すら一流の味にする家政婦の味に慣れ、祥吾は一般人が作る料理など食べられないと思っていた。
それなのに、その辺のスーパーで買ってきた食材で作った料理を、今は「悪くない」と思っている。
(吊り橋効果かな)
助けてくれた恩があるから、と言われたらそれまでだ。
(彼女はずっと冷静だったけど、本当は動揺してたのかな)
そう考えると、鞠花が何を考えているのか知りたくなった。
(いつもならこれっきり会わないだろうけど、……もう少し彼女を知ってみてもいいな)
ポリ……と囓ったぬか漬けは、昔祖母が漬けていた物と似た味がした。
**
(ああ……、びっくりした!)
鞠花は部屋から出て階下に向かいながら、無言で目を見開く。
幾ら看護師をやっていて、様々な患者、果ては幽霊相手に図太くなっていても、人が切りつけられている現場を見たのは初めてだ。
毎朝鞠花がジョギングをしているのは、看護師は体力勝負だと思っているからだ。
しっかり食べるのも寝るのも、体力をつけるのも仕事のためだ。
鞠花は二十六歳だが、二年前に彼氏と別れてから男っ気がない。
今は仕事にやりがいを感じ、彼氏はいいかな……と思っている。
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