〝あれ〟だけは、強引に手に入れてはいけない気がする

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〝あれ〟だけは、強引に手に入れてはいけない気がする

 だが先輩から言わせると「職場に出会いはないし、あっという間に三十路になるから、今のうちに合コンしておきなさい」らしい。  とはいえ、合コンに行く時間もないしな……と思いつつ、毎日淡々と過ごしていた朝に、いきなり修吾と出会った。  走っていると前方に黒ずくめの人物がいて「怪しいな」と半分冗談で思った時、ボディバッグから包丁を取りだした。  まずい! と思った瞬間、無意識に鞠花は首にさげていたホイッスルに手を掛けていた。  都内であっても、何が起こるか分からない。  特に早朝と夜は万が一の事を考え、首にあっても不自然ではないストレートタイプのホイッスルを掛け、アクセサリーに見える防犯ブザーも持ち歩いていた。  自意識過剰と思われるかもしれないが、何より命が大事だ。  仙台にいる祖父母からは、何度も「田舎でも都会でも、どこでも犯罪は起きるから防犯だけはしっかりしなさい」と言われていた。  両親は鬼籍に入り、鞠花を育ててくれたのは祖父母だ。 (でも、あっさり逃げてくれて良かった。よっぽど恨みを持っていたのなら、周到に準備をして滅多刺しにするとも聞くし)  鞠花は犯罪に詳しい訳ではないが、ニュースを見て怨恨からの殺人は遺体の損傷が激しいという事ぐらい分かっている。  看護師という人の命に関わる仕事をしているからこそ、修吾を助けられた事が誇らしかった。 (お父さん、お母さん。私今日一ついい事したから、仕事の帰りにケーキ買ってもいいかな)  一日一善を心がけている鞠花は、胸の中で両親に語りかけ、自分にご褒美を与える口実を作る。  賃貸マンションから出て少し歩いて最寄りのコンビニに入り、鞠花はまっすぐ衣類が置いてあるコーナーに向かう。 (Mサイズでいいのかな? 男性のサイズって分からないかも。でも結構鍛えていたから、Lサイズ?)  分からないながらも、大は小を兼ねるという事でLサイズを買った。  サッと買い物を終えてまた歩き、ぼんやりと修吾を思い出す。 (格好いい人だな。芸能人みたい。まぁ、恋人か奥さんいるんだろうけど。役得と思ってきちんとお世話して、後腐れなく送り出そう)  彼を助けたのは六本木の街中だったけれど、早朝に歩いていたという事は恐らく朝帰りなのか、それとも近所に自宅があるかのどちらかだ。 (あまり関わろうとしても、ああいうモテそうな人の場合、嫌がりそうだしね。〝恩人〟から〝鬱陶しい女〟に降格しないように気を付けないと)  セミの鳴き声を浴びるように聞きながら、鞠花は家に急いだ。 **  部屋に戻ると、修吾はペロリと朝食を平らげていた。 「修吾さん、コンビニで買ったTシャツですが、どうぞ。コンビニに置いてある衣類って、なかなか優秀らしいですよ」 「ありがとうございます。幾らしましたか? 払います」 「いえ、いいんです。それより、着て頂けたら助かります。……その、目の毒なので」  冗談めかして言うと、修吾は「あ、失礼」と背中を向けてパッケージからTシャツを出して白いTシャツを着る。 「一緒に歯ブラシも買ってきましたので、もし良かったらどうぞ」 「何から何まですみません」  Tシャツを着た修吾は改めてこちらを向く。  やはり何の変哲もない白Tを着た姿でも、格好いい人は格好いいのだな、と鞠花は妙に感心した。  そして時間を確認してから、鞠花も食事を始める。 「すみません。冷めてしまいましたね」 「いいえ、お気にせず」  鞠花が食事をしている姿を、修吾が見てくる。 (……た、食べづらい……)  思いの外、食べているところを人に見られるのは恥ずかしい。  箸の持ち方や食事マナーについては、一通り教わった事を守っている。  それでもおかしな所がないか、つい意識してしまった。  やがて鞠花も歯磨きをし、脱衣所で着替えて家を出る頃、修吾がおずおずと話し掛けてきた。 「良かったら今度、お礼に食事でもどうですか?」 「え? ……ありがたいですが、でも、そんなつもりではないので」  本当に下心があって助けた訳ではないので、そう言われると戸惑ってしまう。  けれど修吾は先ほど鞠花からもらったメモ用紙に自分の連絡先を書き、それを握らせた。 「連絡帳に加えておいてもらえますか? 鞠花さんの都合のいい時に、食事に行けたらと思います」 「……はい」 「本当にいいんですって」と言いたい気持ちはあったが、修吾からすれば命の恩人なのだろう。  彼の気持ちを考えると、お礼をしたいと思う気持ちも分かる。  ひとまず理解を示してから家を出ると、早朝より気温が上がっていた。 「一人暮らし、危なくないですか?」 「え? ……んー、まぁ力仕事とかは不便だなって思いますけど、一人暮らしそのものについては、もう慣れています」 「そう……ですか」  狭いエレベーターの中で、フワッといい匂いがしたのは修吾の香水だろうか。 (格好いい人は匂いも格好いいんだな)  鞠花は香水にさほど興味はないが、「この匂いはいいな」と少し思う。  やがてエレベーターは一階につき、二人は別れる事になった。 「それじゃあ、お気をつけて」  ペコリと頭を下げると、修吾も丁寧に頭を下げた。 「助けてもらったご恩、きちんとお返しします」 「いいですって」  軽く笑ってから、鞠花はいつもの道を歩き始めた。 **  祥吾は近くを走っていたタクシーに乗り込み、鞠花の家からさほど離れていない自宅に戻った。 「あぁ……、死ぬかと思った」  人から恨みを買っている自覚はあるが、まさか刃傷沙汰になると思っていなかった。  鞠花に手当てをしてもらったものの、胸板の傷はチリチリと痛んでいる。  コンビニTシャツを着たまま、祥吾はリビングのカウチソファに寝転び天井を見上げる。 (妙な気分だ)  目を閉じると、鞠花の家の感覚がまだ生々しく蘇る。  女性が生活している小さな部屋。  彼女が料理を作る音に、匂い。  脱衣所から聞こえた衣擦れの音に、シャワーの水音。  手に入れようと思えば、祥吾の周囲にいる女性たちが喜んで差し出してくるものばかりだ。  なのに〝あれ〟だけは、強引に手に入れてはいけない気がする。
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