通学風景

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 あばよ、と言って凪ちゃんがドアの前の立つ。ピッと指を二本立てて見せる姿に、わずかな照れがうかがえた。  電車はプラットフォーム滑り込んでいく。駅前の町並みが彼女の背中越しに車窓から見えた。 「あばよ、て何なんだろね」 「……せっかくの格好いいセリフに水を差さないでよ」 「間投助詞の、よ、かなあ。暑い日とか古文の西原先生がよく死なむよーって言ってたよね」 「覚えてないって」 「あばは何かな。阿婆擦れとかアバンチュールとかかな」 「咲はこんな日でもマイペースだ。本当に」  凪ちゃんのこれみよがしのため息はドアの開く音にかき消された。  わずかな停車時間すらも急かすようにベルが鳴る。彼女は少しだけ躊躇うようにして、またね、と言った。うん、と応じると、大きく一歩を踏み出して、彼女は電車を降りた。  ドアが閉じて、電車がガタンッと動き出す。窓の向こうに、プラットフォームを歩く凪ちゃんの姿がちらりと見えて、あっという間に後ろに過ぎていった。  かすかな横揺れを感じながら座席に深く腰かける。膝の上に置いた通学鞄から参考書を取り出したところで、ふと、大学受験が既に終わったことに思い至る。ふふっと笑いが漏れる。もちろん勉強していけないことは無いのだろう。ただ、大学受験必携、と表紙に堂々と太字で印字された参考書に取り組む資格を、自分は既に失っているかのような感覚があった。  参考書を閉じたまま、窓の外に視線を移す。  電車は走り続けている。トトン、トトンと軽快な音が続く。凪ちゃんの住んでいるであろう高台の町並みが既に遠くに見える。高校二年生で初めて同じクラスになった彼女とは、席が近かったことと、電車通学であるという共通点で仲良くなったものの、ついぞ学校と通学路以外で会うことはなかった。 「免許どうする。車の。取んねえの」 「春休みは無理かなあ。最速で夏」  電車の走る音の隙間を縫うように声がする。右斜め前の座席で気だるげに会話する男子学生を目だけで追う。車内の乗客達は皆一様に無言で、携帯電話を見つめるか、目を閉じるかしていた。  再び、窓の外を眺める。  遠くの町が、視界から外れていく。わたしは想像する。凪ちゃんが自宅へ向かう坂道を登るところを思い浮かべる。高台のその町は、時期を同じくして建てられたであろう住宅がずらりと並んでいる。午後の陽を浴びたぴかぴかの軽自動車が坂道を軽やかに下っていく。どこかの家の庭先で、ユキヤナギの白い花が春風に揺れる。それを彼女が見上げる。そんな様子を。 「次は入河。入河です。お出口は左側です」  車内アナウンスに現実に引き戻される。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。  車内はすっかり人影が減っていた。長椅子の下から吹き出す温風にふやけた足をとんとんと踏む。  顔を上げると、窓の外は暗くなり始めていた。川沿いのわずかな平地に田畑が広がり、ぐっと迫った山並みは夕焼けを背負って影絵のようだった。山の稜線は藍色に紅を差したような色で、目を凝らせば星が見えた。  カーブに差し掛かった電車はキィッと高い音を立てる。「わっ」と驚くような声が聞こえた。少し離れた場所に、小さな男の子が母親と並んで座っていた。もこもこした毛糸の帽子をかぶった彼は、一心に窓の外を見つめながら、時折、隣に座る母親の袖を引いた。コソコソと、それでも耳に届く密やかな声がする。 「お山のところ、ピカピカしてるね」 「ほんとだね。お家があるのかな」 「ここにあるよーって合図してるのかな」  つられて視線を移すと、山の中腹に民家のものらしき灯りが見えた。毎日のように眺めていた名前も知らない里山が、次第に夜に沈んでいく。あの灯りの下で誰かが、この電車を眺めているのだろうか。山間を横切る明かりはどんな風に見え、線路を踏む音はどんな風に聞こえるのだろう。  そう考えながら見ると、山影の中で光るそれは、高度を間違えた星のように遠く感じられた。  電車が止まり、親子は並んで降りて行った。わたしの降りたことのない駅だった。思えばこの三年間、降りたことのない駅ばかり通り過ぎてきたと思い至る。だから、改札の向こう側の自分の知らない世界を頭に描く。あの親子が、温かな明かりの街灯の下、手をつないで家路につくところを。  電車が走り出すと、車内は一層がらんとした。ごおっという低い音が遠く響き、余計に車内の静けさを際立たせる。トンネルが続くたびに、窓に反射する自分の顔と向き合った。数日前まで高校生だった女の子が、わたしを無感情に見つめている。  中学を卒業して、初めてこの電車で通学した日の自分はどんなだったろう、と思い巡らす。  窓に反射する自分が首を傾げる。  きっと、あの頃よりも髪は伸びただろう。背はどうかな。あか抜けた、と言えなくもない。なくもない、というのは素敵な言葉だ。謙虚な感じがするし、もしかしてそうかもしれないという可能性を感じさせる。つまり、可愛くなった、と言えなくもないし、綺麗になった、と言えなくもない。いや、言えないか。  自分勝手な思考が可笑しくなる。窓に映ったわたしが苦笑していた。 「間もなく、終点、上畑。上畑です。お忘れ物のないよう……」  車内アナウンスを聞きながら伸びをする。ふうっと息をつく。  ポケットから定期券を取り出して、目の高さまで掲げてみる。車内の照明に照らされた定期券には、今月末の日付が印刷されていた。もう、自分が乗ることはないであろう未来まで、この定期券は生きているのだ。  電車の速度が目に見えて遅くなる。プラットフォーム手前、もうすぐ揺れるぞ、と身構える。ゴトンと車両が揺れて、電車はゆっくりと停まった。座席から立ち上がる。ドア前に立つ。車掌さんがドアを開ける。その車掌さんが定期券を確かめる。「お疲れさま」と声をかけられ、「あ、お疲れさまです」と返す。いつもどおりの一連の流れ。  小さな階段を降りると、駅前のロータリーが見渡せた。オレンジ色の街灯に照らされたタクシー乗り場も、バスの停留所も、誰もいない。  まだ冷たい春先の夜風が頬を撫でる。少し離れたところに車が一台停まっていて、運転席の窓から父が顔を出す。手を挙げてそれに応じながら、車に向かう。 「お父さんもたまには咲の送り迎えしたいでしょ」  わたしの高校進学が決まった時、母はそう言った。その言葉には有無を言わせぬ圧力があった。その圧力は、言い換えれば「まさかわたしにだけ娘の送迎をさせないでしょうね」という念押しであることは明白だった。さらに付け加えれば、「バス路線もないし、駅まで車で三十分かかる自宅の家長はどなたでしたっけ」という立地の責任所在を追求したものでもあった。全てを察したであろう父が「そうだな」としか言わなかったのが可笑しかった。  お待たせしました、と言いながら後部座席に乗り込むと、おう、と短く返される。 「卒業式は済んだのに、まだ登校日があるのか」  シートベルトを締めながら、父が言う。 「書類出したり、色々あるんだよ。高校生には」 「大変だな高校生は」 「あ、もう高校生じゃないんだった」 「じゃあ、何だ」 「無職、かな」 「大変だな。無職は」 「大変だよ」 「まあ、今日までは高校生でいいだろ。誤差、てやつだ」  エンジンがかかる。ハンドルを握った父が、フロントガラス越しに駅舎を見つめる。 「朝晩と、この駅を見ることもなくなるな。見納めだ」  車が動き出す。誰もいない駅前をゆっくりと方向転換する。  見納め、という言葉が耳に残る。  車の窓から小さな駅舎を見ながら、あばよ、と言いかけて口をつぐむ。  寝坊して車に飛び乗るわたしを見送った母の顔や、土砂降りの日にも車で送迎してくれた父の姿がいくつも浮かんだ。名前も知らない車掌さんや、顔だけ知っている同じ車両の乗客さん達も。凪ちゃんの顔も。そして、電車の窓に映った高校生の自分の顔も。  この三年間の日常が、明日からは無くなる。自然なことだ。でも、それに別れを告げることが躊躇われた。  それが何なのか判然としない。  だから、どんどん遠ざかる駅を振り返って、ただ静かに、またね、とだけ呟いた。  いつか、それがわかるまでは、今日の日の誤差、という気持ちで。
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